「なぜ国を守らなければいけないのか?」のマジレスを考える -後編-

前回の続き。
「なぜ国を守らなければいけないのか?」のマジレスを考える -前編- - maukitiの日記
前回日記では、既にパワーポリティクスな現実主義的な史観から「国を守る為に戦う」ことが後退しつつある点を書いたわけだけども、それだけでは『なぜ国を守らなければいけないのか?』について解答しているわけではありませんよね。
ということで、そもそも『国家とは何か?』について適当なことを書きます。

「俺は、“流出がいいか悪いか”ということよりも、もっと上の問題“国を守るべきか、守らないべきか”を議論したかったんだよ。要は“国ってなんなの?”ってこと。
“国を守りたい”って思ってるのは“国に頼ってる人”なわけで、国に頼ってない人は“別に関係ねえや”って思ってるわけでしょ。ほかの国で暮らせばいい。でも、みんなは“国を守らなきゃいけない”って言う」と堀江氏。

http://wpb.shueisha.co.jp/2011/02/25/2809/

さて、堀江さんはそんな「国家政府の名前・形態がどうであろうとその下で生きている人間には関係がない」という姿を将来あるべき理想のように語っているわけですけども、そんな世界が実現するかどうか、という以前にそうした世界は既にもう一度実現した事があるんですよね。
つまり国民国家以前の、絶対君主の時代に。
朕は国家なり*1』という時代。まさにあの頃の困窮する多くの国民にとって遥か権力の最上層にある国家政府の名前・形態など心の底からどうでも良かった。堀江さんの仰る「国の名前にこだわらない」世界は、そんな200〜500年位の前のヨーロッパを初めとする世界中のどこにでも見られた社会なんです。
で、実際にそれはどうなったかというと、もう全力で否定された。
何故かってそりゃ、『国民が国家という主体のことをどうでもいいと考える』ということは逆説的に、『国家という主体がその国民のことなんてどうでもいい』と考えることに繋がってしまうからですよね。そして実際に権力者たちにとって、搾取の対象であり、国民なぞ幾らでも畑から湧いてくるようなものだと考えていた。だって国民の物は国家の物であり、国家の物はつまり王様の物であったんだから。


これに対する反発として市民革命を通じての国民国家という概念が生まれたわけであります。つまり『朕が国家』なのではなく、『国民こそ国家』であると。この概念で同時に追求されたのが、国民一人一人の持つ生命や財産は国家のものではなく、彼ら自身のものであるという基本的人権であることは皆さんご存知のお話であります。
ルソーさんから始まる社会契約論*2って結局の所、そうした権利という概念を国家によって守らせることを目的としている。そして逆に国家とはそれを守っているからこそ正統性があるのだと。*3
だからここでよく誤解されがちなのは、国家は別に国民の生命や財産自体「そのもの」を守っているわけではないんですよね。概ねそれは正解に近いのだけれども、しかしより正確にいうのならば、国家は私たちの基本的な人権という『生存権』や『財産権』を守っている。
そうやって個人の権利という概念を確かなものに成長させてはじめて、自由主義や資本主義という現代に至る価値観が実現する土台が生まれた。



だから別に生活保護や公務員であることだけが国に頼っているわけでは絶対にない。なんというかそれって表面上のことにしか過ぎませんよね。私たちが本質的に国家に依拠しているのは、生命や財産そのものではなくて、自らの人権が尊厳をもって扱われるという権利や自分の財産が自分だけのものであるという権利、であるのだから。そんな自分のものが自分のものであるという当然の権利は、確かに「生来の」ものであると私たちは教えられているんだけど、それを究極的に担保しているのはそれぞれの国家に依っているんです。
それは例えば私たちが『パスポート』を通して国家から問題の無い渡航者として正統性を担保されている構図に近い。ただ当たり前すぎて、そんな風に目に見える形で現れていないだけで。
何故それを国なんかに委託しているのかってそりゃ、他に誰もやってくれなかったからですよね。私たちは無条件に人が人であることを互いに認めることもできなかったし、また無条件に保護してくれる神さまなんて居なかったんだから。
ヴォルテールさんの言葉を借りれば、

神が存在しないというのならば、それを自らの手で発明するしかない。

そうやって、私たちは基本的人権をより擁護するために近代国家という概念を生み出した。まぁよく非難されるように、しばしば、国家が自身がそれを犯したりで不完全な神さまではあるんですけどね。でも欠陥品でも無いよりは全然マシだから。偶に何も考えずに「それなら無い方がマシだ!」なんて言っちゃう人も居るんですけど。


その意味で「国家に頼ってない」と言い切れる人なんて、少なくとも先進国で真っ当に生きてる人では殆ど存在しない。「国籍さえ持たずに、自らのパワー*4によってのみ生きている」なんて人しか当て嵌まらないわけだから。それって国家に追われる犯罪者か、紛争地帯や未開の地に住んでる人しか当て嵌まらないんじゃないでしょうか。まさに彼らがその生存権も財産権も自分で確保しなければいけないように。
だから彼の発言の前段部分はともかく、「“国を守りたい”って思ってるのは“国に頼ってる人”なわけで、国に頼ってない人は“別に関係ねえや”って思ってるわけでしょ。ほかの国で暮らせばいい。」という後半部分はすごく気の抜ける話ではありますよね。中学生位までなら許されるでしょうけど、教養あるいい大人が言うセリフではないんじゃないのかと。私たちが本質的に依存しているのは物質的なものではない、権利の保証なんだから。

まとめ

ということで「なぜ国を守らなければいけないのか?」に対する答えとしては、「それが私たちの権利そのものを守っているから」あるいは「他に守ってくれる人が居ないから」辺りでしょうか。


以前の日記でも書きましたけど、当たり前すぎてそうした本来要請されたはずの国家の役割を忘れてしまうのは何というかガッカリしますよね。これも人権という概念があまりにも一般化された故の弊害なのかもしれません。もちろん国家機能の別の一つでもある「共同体としての機能」も存在してるし、それがナショナリズムと結びつきやすいから多くの人から嫌われて批判されやすいという点は理解はできなくはないです。
しかしそれでも、自由主義や資本主義を信奉している堀江さんが言う辺りは特に気の抜ける話ではあります。そうした思想は国家によって個人の財産権が担保されてようやく実現するようになったものなのに。
そんな馬鹿みたいな事を言っていたら、それこそ反ティパーティーな人に「アメリカ独立宣言でも読み直すべきだ」と怒られてしまいますよ。かつてマディソンさん*5なんかはまさに「財産獲得についての人それぞれに異なった能力を守ることこそが『政府の第一目標』だ*6」と訴えていたわけなんだから。


結局の所、やっぱり個人的には、人がより進化してニュータイプのように解りあえる日がくるか、あるいは国家以上の上位形態にその権利担保の役割を昇華させない限り国家の必要性は無くならないと思います。みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:ルイ14世 (フランス王) - Wikipedia

*2:といってもルソーさん自身の社会契約論というよりも、それとは別なロック流の社会契約がこの場合正確ではある。

*3:ちなみにここまでの議論でもし、「保守主義の父」で「反革命の父」なバーク哲学とか持ち出されたら僕は謝るしかない。それはそれで笑える話になってしまいますけど。

*4:暴力や資金。更にいえば通貨という概念さえも国家の庇護の下にあるわけで。円を使っている時点で日本に庇護されているし、ドルを使っている時点でアメリカに庇護されているとも言える。何せ本来ただの紙である通貨の価値を後天的に保証しているのはその国家自身なんだから。

*5:アメリカ合衆国憲法の父」で第4代アメリカ合衆国大統領ジェームズ・マディソン - Wikipedia

*6:ザ・フェデラリスト - Wikipedia