「非常事態」が導くもの

ということでいつもの某御方のおかげで予想外にアクセスあってびっくりな先日の日記。せっかくなのでその補稿的なお話。

「顔見知りの人間は誰も居なかった。それでも全員が一つの熱い感情をともにしていた。戦争だ、戦争だ、そして誰もが一つに結ばれたのだ。」

戦争だ! ついに戦争が始まるのだ! - maukitiの日記

1914年当時のヨーロッパ諸国での多くの市民たちが戦争によって熱狂的に、いわゆる「国民的結束」や「生き甲斐」を得ていた、という悲しい事実。もちろん、第一次世界大戦が政治的・軍事的な面からの失敗や錯誤や暴走によってもたらされたという説明も正しい。しかし仮にその一部が政府によって意図的に煽られた物だとしても、それでも尚、その戦争を求めたのは当時の市民たちによる要請でも確かにあったんです。
彼らはまさに戦争という「非常事態」によって人びとの一体感を刹那的に感じ取っていた。それは、老いも若きも、男も女も、金持ちも貧乏人も、宗教の違いがあっても、人種の違いがあっても、バラバラの状態だった彼らは本当にその瞬間は「戦争という熱い感情」によって、それまでなかったはず一体感とその喜びを得ていた。


で、それってまさに未曾有の大震災に見舞われた現在の非常時にある日本と、ほとんど同じ風景でもあるんですよね。ばんばん政府広報でもそれを言うし、マスコミもそれをいうし、そして私たち自身でも実際そう考えている。私たちは(普段ならそれをあまり受け入れない人々でさえ)「日本として一つとなってがんばろう」という意見をすんなり受け入れる。あるいはここぞとばかりにそれを強調する。個人的なそれではなく、『日本』という総体の一員として我々は一致団結して乗り越えるのだ、と。こんな時に「アジア人として」だとか「人類として」だとかは(勿論海外向けには言うけども)ほとんど聞くことはない。
でもそれはあの時と同じ、一時的で(副作用もある)ブーストであり、緊急体制です。そして現実にそれはかなり効果があると誰もが思っている。
別に、このことに関して良いとか悪いとかそういう話ではないんです。それはまた別のお話。


むしろここで見えてくるのは、やっぱり1914年当時の『戦争』が証明したような非常事態には国家としての一体性に訴える事が、現代の日本においても「非常に効果的である」と多くの人がやっぱり同じように考えていることなんだと思うんです。
それって結局の所、普段どう思っていようが、私たちの最終的な帰属先が国家である、ということの証明でもある。
一部の人びとは欧州連合などによって脱国家体制というものを目指してはいるけども、しかしやっぱりこうした時には頼ってしまう。いまだに「人びとの一体感」の担保となるのは国家であると。そんな風に考えるとこの先も当分の間は『国家』というシステムは安泰なんだろうなぁと思ったりします。

フランスでは、最大野党の社会党を含め大半の政治勢力が軍事介入を支持している。

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011032301035

前回の日記でこうしたフランスをバカだなぁ、と暖かい気持ちで見守っていましたけども、でもそれは私たち日本だってほとんど同じなんですよね。私たち人間は非常事態であればあるほど、皮肉なことに「一体感」や「生き甲斐」を強く抱いてしまう。普段は賛否両論あったはずなのに。それは上手く使えば今回の私たちように素晴らしいパワーを生み出すけども、しかし万が一扱い方を間違えればいつかの道をまた辿ってしまう。
それはつまり、現代社会においても未だ「非常事態」が導くもの、であると。