おおギリシャよ、またおまえなのか

2000年以上の時を越えて再証明されるギリシャ政治と民主主義についてのお話。おかえりなさいアリストレス。


ギリシャ、与野党大連立で合意 パパンドレウ首相は辞任へ 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
ということで、結局――あるいは案の定、ギリシャさんちの緊縮政策受け入れを巡っての国民投票は回避されたのでした。おめでとうおめでとう。
いやぁ皆さんの素晴らしきパターナリズムのおかげですよね。まぁそれを少し前に流行った経済学でいう所の『リバタリアンパターナリズム*1』と呼ぶ人もいらっしゃるかもしれませんけど、しかしどちらにしてもまったく民主主義的手法とは程遠い結末となったわけです。実際、欧州諸国の指導者の人たちがそのギリシャの『愚行』を非難していた時、まるで判を押したように「もちろん民主主義的には正しいものの、しかし〜」とエクスキューズしていたのには苦笑いするしかありませんよね。まさにその通りだったのだから。


さて置き、こうした今回のギリシャ救済をめぐる一連の出来事は欧州連合とユーロ通貨の構造的な欠陥を暴露しただけではなく、更にはパパンドレウさんの爆弾発言によって更にまた同じくらい面白い事態をこうして引き起こしてしまったと思うんですよね。つまり、民主主義って一体何なんでしょうね? という問いこそを。
パパンドレウさん提案の『国民投票案』は、見事にあからさまな外部からの圧力と、そして一部ギリシャ政治家たちによる少数の人びとの決定によって潰されました。それは確かに多くの人が望んだ選択でもあります。国民投票などやるべきではない、と。更に言うならそれはそれなりの数のギリシャ国民自身が望んでいたことでもあります。国民投票なんて俺たちにやらせるべきではない、と。そしてその願いは(端から見ても)結果だけを見れば、やっぱりそれなりに正しいとさえ言えるでしょう。
しかしそんな正しい選択のもう一つの側面としては、ギリシャの民主主義が機能する機会は一部の人びとの圧力によって失われた、ということでもあるのです。


私たちははそんな一部政治家たちの民主主義への介入を(必要ならば)認めるべきなのでしょうか?


こうした議論は古くて新しい問題であります。つまり「私たちの民主制はいずれ寡頭制へと回帰するのではないだろうか?」という、それこそ2000年以上昔に一度経験したはずの、古くて新しい議論。日本でもよく「一部特権階級のみによって政治が動かされている!」なんて怒る人が居るように、それは世界の先進民主主義国家のほとんどどこでも言われている話でもあるのです。そしてその流れはむしろ、自由民主主義国家として長い歴史を持っている国ほど『少数支配という寡頭制』が進行しつつあると言われているのです。
アメリカやイギリスやフランスなどを例に挙げた上で、エマニュエル・トッド先生は、こうした民主制から寡頭制への回帰をその著書『帝国以後』の中で次のように述べています。

(略)われわれは民主主義の前進を、ほとんど神の意思であり「神の摂理によるもの」と考えたトクヴィル*2の世界に生きていた。高等教育の進展は今日われわれをして、もう一つの「神の摂理による」前進を体験させている。ただしそれは災禍をもたらす前進、寡頭制への前進である。
民主制のあとに寡頭制が到来した、あのアリストテレスの世界への驚くべき回帰に他ならない。

つまり、民主主義は現在、それが弱体であった所では前進しつつありそれが強力であったところでは逆に後退しつつあるのだ、と。


そして現実にギリシャの『国民投票』の案は欧州経済危機を理解している一部の正しく冷静な人びとによって「バカげたもの」として、公然と、そして適切に非難されたわけです。それこそ世界でもっとも民主主義が進んでいるはずのヨーロッパの国々の手によって。そして更には、かつて最も早く民主制を発明しながらも結局寡頭制に陥ってしまった古代ギリシャと同じ舞台で。
いやぁ愉快な皮肉ですよね。
しかしこうして見ると、アラブの春が持ち上げられている一方で、ヨーロッパでははこんなことをやっている構図。全然『歴史の終わり』なんかではありませんよね。フクヤマ先生涙目。

*1:あるいはソフト・パターナリズムとも。どっちにしても意味は概ねそのまんまです。Libertarian paternalism - Wikipedia

*2:フランス人の政治思想家。アレクシ・ド・トクヴィル - Wikipedia