非処女になってしまった原発

タイトルオチ。元々原発反対派だった人たちではなくて、事故後になって転向した人々についてのお話。そんな対立する両者が全く解りあえそうな気配全然ない辺り処女厨議論とそっくりなことに今更気付きました日記。



つまるところ、(少なくとも現時点の日本における)最近生まれた反対派の人びとにとって重要なのは「なぜ安全なのか」という理由付けではないんですよね。彼らが本質的に求めているのは『安全性』の実績そのものでしかない。幾ら最悪の重大事故が未然に防げようが、福島原発という、もう既にその負の実績が生まれてしまったわけだから。
ぶっちゃけてしまえば、それはもう一度負けてしまった存在、でしかない。
それまで何十勝何百勝していようが、一敗してしまった時点で、もうそれは無垢な存在と見られなくなってしまったんですよね。一度破れてしまった時点で「もはや神話・聖性は消えうせてしまった」と信じてしまっている。まぁそんなもの初めからなかったとも言えるんだけど*1


その意味でそんな彼らが持ち上げる太陽光発電風力発電原子力発電が勝てるわけない。だってそれらはまだ一度も大規模に運用されたことのない0勝0敗なんだから。それでも10勝1敗よりも100勝1敗よりも、0勝0敗の方が価値があるように思えてしまう。何よりも一度破られた事が許せない、処女信仰なひとびと。
まぁ広い世の中そういうことを考える人が居たって別にいいですよね。それはそれで一つの価値観だろうから。


がんばれ処女的なものがだいすきなひと。

*1:それこそチェルノブイリやスリーマイルといった重大事故は元々あったはずなのに