正しいからこそ対立する

アメリカとヨーロッパの違い、のお話。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/8844
実際、昔から政治や経済や安全保障等々の議論でも、「欧米」とひとくくりにするのは適切ではない、なんて風に言う人も多いんですよね。
まぁ当たり前の話ではあるんです。しかしながら、解っていてもそこを分けるのはめんどくさ過ぎるので皆敢えてスルーしてきたわけで。で、今回の事例のように、その差異が明確に突きつけられると「やっぱり」と思ってしまうんですよね。


ともあれ本題。

 フランスでは、公の場で被疑者を連れ回すことは禁じられている。英国では、被告人が起訴されると、裁判が終わるまで公判の進行状況以外の内容は報道できない。陪審員に先入観を与えるのを避けることが目的だ。

 こうした国々の司法の場は、できる限り外部の雑音から遮断された厳格なものになる傾向がある。米国では、司法の場は劇場に近く、弁護士は自らの案件について放送メディア上でも争い、カメラは法廷の争いを撮影する。米国人にとって、これらはすべて、開かれた法廷の証しなのだ。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/8844

まぁなんというか、どちらのやり方もそれなりに正しいのかなぁと思います。
結局の所、プライバシーと透明性は両立する事はできなくて、どちらか一方を優先すればどちらか一方は後退するしかない。本質的にそれはトレードオフするしかないと。
アメリカは透明性を重視して、しかしヨーロッパはそのプライバシーを重視する。そしてその負の結果がアメリカのような「劇場型裁判」であり、ヨーロッパの「(特に権力者への)黙認と免責の空気」であると。
正解か不正解かではなくて、どこに最善を設定するかというお話。めんどくさいお話ですよね。


ヨーロッパの宗教的自由と、アメリカの宗教的自由 - maukitiの日記
構図的には、以前書いた『宗教的自由』でのやり方での対立に近い物があるのかなぁと思います。
どちらか一方が完全に間違っているわけでも、しかし完全に正しいわけでもない。例えば中国などのやり方と比較しての議論になどは全くならないように、そこに議論の余地があるからこそ。こうして議論になってしまうのはある点において、どちらも正しくて、そしてどちらも間違っている故に。
彼らはその意味で、同じ場所に立っているからこそ、似ているからこそ、両者は「真に」対立することになる。


まぁ世の中って大抵そんなもんですよね。いつかトレードオフするしかなくなってしまう。
で、両者を一挙に達成できると信じているすばらしく博識で知恵の回る方が、真に革命的なたった一つのやり方があると主張して、めんどくさいことになると。