国旗国歌議論の先にあるもの

現代の共同体社会における一体感の役割について。


ということで大阪橋下さんの過激なアレや最高裁判断が初めて出たり*1して色々盛り上がってる「国旗や国歌に対して如何にコミットするか?」という議論であります。
こうした議論において、賛成とか反対とか書いてもポジショントークにしかならないので、国旗や国歌という『(広義の)宗教的象徴*2』の先にあるかもしれないもの、について以下適当に書きます。


共同体的効果の二面性について - maukitiの日記
上記日記でも少し書きましたけど、国旗や国歌などの象徴に(半ば強制的にせよ)コミットすることは、その共同体への一体感や連帯感を醸成させるのに確かに効果的な手段であるのは間違いないんです。それは例えば、キリスト教で十字架に祈ること、と本質的には違いはない。
しかしまたそれと同じ位確実なのが、そうした象徴にコミットさせることによって『排他性』も獲得する、ということなんですよね。非国民だったり異宗教だったり異民族だったり、更には人間外だったり。そうした排他機能は概ね「人間の負の歴史そのもの」とさえ言えて、懐疑派・反対派の人びとの持つ反発する感情は、だからかなりの部分まで正しい。
かつては血族や言語や宗教が担い、そして民族や国家へ。統合形成機能と排他機能というコインの表と裏のように、共同体における役割をどちらも果たしてきた。


よく一方に「そうした負の歴史があるんだから、そんなカビの生えたような古臭いものなんて要らない」と簡単におっしゃる人びとがいらっしゃいますけど、それは悲しいことに正しくて、悲しいことに正しくない。より先進的で権利や平等を重視した民主的な社会で生きる私たちだからこそ、そこから逃れられないんです。
それに反発するのはいいとして、むしろここで重要なのは「ならば一体、何にその役割を見出せばいいのだろうか?」ということなんですよね。

民主主義に生きる私たちの業

私たちの愛する『民主的手法』とは、幾ら言葉を尽くして言い繕ったところで、やっぱり「少数の意見を殺す」選択というシステムなのは間違いないんです。そこには必ず勝者と敗者が存在する。当たり前の話ではあります。
しかし成熟した民主主義社会に生きる私たちは、例え自分の意見が受け入れられなかったとしてもその決定に(多少の不満を抱きながらも)従っていく。少数の意見を無視したとしても結果、暴動や分離独立に至ることはまずない。それは別に私たちが特別に賢かったからでも、特別にバカだったからでもない。
勿論そうした要素がゼロとは言えないけれども、しかし一般には「その共同体への帰属意識があるから」こそ、私たちは矛を収めることができているんです。同じ共同体社会の仲間であると考えているからこそ、多数派の彼らの決定に従うことができる。彼らも同じ共同体の存続を願っているだろう、という暗黙の了解によって。
成熟した民主的な社会に生きれば生きるほど、そうした一体感や連帯感は必要になってくる。そうでなければ私たちは民主主義を維持していくことができないんです。理性一辺倒でなく、感情でも生きている人間だからこそ。


そして政治的に弱者救済を謳う人びとだって同じなんです*3。私たちは同じ共同体の一員だからこそ、積極的に助けようと思うし、そしてその為の負担に耐えることだってできる。
たまに社会の平等や弱者救済を謳いながら「共同体への一体感など要らない」なんて言う人がいらっしゃいますけど、そんな人は画期的な知恵のある人か、何も考えていないバカか、独裁者になりたい人と見るべきだと思います。
だって独裁的手法であれば、民主的なプロセスも弱者救済の負担も、何も考慮する必要がないんだから。


血族や言語や宗教や人種や民族や郷土や国家、いずれにしてもそれは排他機能に伴う悲劇をも生み出してきたのは明確な事実です。だからそれらを否定や非難するのは簡単なんです。しかしそれ以外で何をもって民主的な社会に必要な一体感や連帯感を担保させるのか、それこそを議論すべきだと思うんです。
より進んだ民主的な社会であるほど、より一体感は必要となり、そしてその排他性はより強くなる、その事を念頭に置いた上で。私なんかにはまったく想像できませんけど。まぁ民主主義を諦めるというのも一つの可能性ではありますよね。


あ、『同じ人間だ』という属性でもってそれを成せばいい、とでも言えばいいのでしょうか?*4

*1:君が代訴訟:「教職員への起立命令は合憲」最高裁が初判断 - 毎日jp(毎日新聞)

*2:この場合の「広義の宗教」と「狭義の宗教」についてはティリッヒの定義に基づいてます。一般的なキリスト教イスラム教や仏教などの諸宗教を「狭義の宗教」とした場合、「広義の宗教」とは私たち人間が価値があると感じる政治的イデオロギー・文化・風俗など全般を意味している。それらもまた狭義の宗教と同様に、私たちは意味があると信じることによって初めて価値が生じているのだから。例えば、相対的なポジションの極致から「何故あなたは日本人でいるのか?」と聞かれた場合には、「それには価値があるから」とやはり宗教的に答えるしかない。

*3:それはある種の『平等』を究極にまで追求した過去の共産主義者たちが、殊更に『国家への忠誠』を強調していたことからも見ることができる。つまり彼らは多くの人が激しい反感を持つだろう完全なる所得移転を実現させる為に、より一層の「国家全体の為に」「社会みんなの為に」という動機付けが必要となり、だからこそ彼らはあそこまで国家主義に傾倒していったわけで。まぁそんなものでは補いきれなかったので失敗したわけですけど。

*4:この前の大震災で私たち日本はそれこそ無数の世界の人びとから暖かい支援を戴いたわけであります。それは確かに同じ『人間』であるという一体感から出た素晴らしく美しい好意です。しかし、それはやはり大地震という突発的で衝撃的な事態だったからこそ、特別に成された幸運な例だったんです。だって世界には日本と同じかそれ以上の災難に見舞われている人々が無数に存在していながら、しかしそれらにはほとんど目を向けられないんだから。