「生理的に無理!」を論破しようとする人びと

めんどくさい国旗や国歌議論のお話。



「日の丸が怖い」と言うと粘着してくるひと - Togetter
よーし国旗のもたらす象徴装置についてまた熱く語っちゃうぞー、って思ったら全然そんな話じゃなかった。toggeterマジこわい。
でもめげずに以下適当なことを書きます。



何故かこの議論になると否定派にしろ肯定派にしろ澄ました顔で「自分は理性的ですよ(故に貴方は理性的ではない)」なアピール合戦になるんだけど、ぶっちゃけそういう問題じゃないですよね。そのほとんどにおいて、(国旗国歌を)受け入れられない人は感情の問題であるし、逆にそれを積極的に受け入れる人も感情の問題でしかないわけです。しかし彼らはお互いにお互いを「感情的になりすぎる」と非難しあっている。
勿論そこには理性に訴えるメッセージ性が付与されているのも間違いない。国家成立以来の正の歴史にしろ、負の歴史にしろ、そこに何らかの意味を見出すことはいくらでもできる。
でもそれだけじゃないですよね。
公的な儀式・行事における国旗掲揚や国歌斉唱の際になんらかの精神的高揚感や感慨を抱く人がそれなりの数存在しているように、多くの場合においてそれは理屈じゃないわけです*1。また逆に反感を抱く人だって理屈じゃないんです。というか理屈で収められる程度ならポジティブにしろネガティブにしろわざわざ能動的に自らのポジションを表明する必要さえないわけで。ただその装置についての機能を比較して訴えればいいだけなんだから。しかしそんなことで当然答えが出るわけがない。故に彼らはそのどちらにしても、敢えて積極的に自らのポジションを表明することを選択することになる。結局そのポジションを明確に表明する為の最後一押しをしているのは『感情』の問題でしかない。そしてそこに感情があるからこそ彼らは怒るのだと。


まぁだからその意味で「日の丸とか生理的に無理!」とか「日の丸を嫌うなんて理解できない!」と言う人たちのほうがまだ率直で誠実だと思うんですよね。確かにそれは感情の問題でしかないんだから。


この議論において真に不毛なのは、彼らはお互いにその「生理的に無理」と言っている相手を説得できると信じているという点にあります。そんなもん一体どうしたら説得なり議論なりになるのかと。
肯定にしろ否定にしろ、いやぁすごい自信ですよね。僕にはとても無理です。

*1:例えばかつての日本であったような『踏み絵』とか。しばしばそうした象徴機能にコミットすることは、理性ではなく感情の問題であるわけです。