『ウラン濃縮』はチョコレートの箱のようなもの

つまるところ開けてみなければわからない、と。いつもの様式美なお話。


北朝鮮、ウラン濃縮停止を拒否 核の平和利用強調 - 47NEWS(よんななニュース)

【ニューヨーク共同】北朝鮮の金桂冠第1外務次官は7月31日、同国のウラン濃縮活動について「電力生産のための平和的活動だ」と述べ、先の米朝対話で濃縮活動停止を求める米国側の要求を拒否したことを確認した。ニューヨーク市内のホテルで記者団に語った。

北朝鮮、ウラン濃縮停止を拒否 核の平和利用強調 - 47NEWS(よんななニュース)

なるほどなるほど。「電力生産のための平和的活動」だそうです、そうか、なら仕方ないよね!


ということでまぁ北朝鮮さんちのもう毎度おなじみになってしまった発言。でもまぁ確かにそう主張する事自体は、確かに彼らの持つ権利の一つではあります。全ての国には「原子力を平和的に利用する権利」があるのだと。
しかしそうはいっても「平和的利用」なのかあるいは「軍事的利用」なのか、それをやる前から見分ける手段を私たちは持ち合わせていない。人生というチョコレートの箱のように、あるいは日本人がだいすきな某猫の箱のように、『ウラン濃縮』もまた結局の所実際に蓋を開けてみなければ中身はわからないわけです。
その意味で、日本政府の言う「原子力の平和利用」も、北朝鮮の言う「原子力の平和利用」も、ある面ではまったく等価値ではあるんですよね。その中に何が入っているのか誰にも断言はできない。


偶に原発をまるで核兵器を見るかのような目で蛇蝎の如く嫌う一部の人びとがいらっしゃいますけど、彼らはある面までは正しい。だって(投射能力は別として)かなりの部分までは両者は同一でもあるんだから。
だからそもそも論で言ってしまえば、両者を分けること自体にそもそも無理があるとさえ言えてしまうんですよね。かつてウォルステッターさん*1なんかはNPTの発効当初から、マジ無理だから、と仰っていたわけです。
それは今回のような北朝鮮やイランが証明している話でもあるし、そして少し前に韓国さえもそうしたことがニュースになったように、どこまでいっても「平和的利用」と「軍事的利用」は紙一重でしかないのだと。


私たちはそうした「開けてみなければ誰にも解らない」というある種の千日手を回避する為に、IAEAの査察を受け入れているわけです。そりゃそうですよね、端から見て違いが解らない以上、誰か第三者にその保証を担保してもらうしかない。
まぁ偶に今回のような「俺が言ってるんだから俺を信じろ!」な無茶を通そうとする愉快な人がいらっしゃるわけですけども。