この余白はそれを書くには狭すぎる その2

それはもうめんどくさい「正戦論」のお話。ちなみにその1は「創造論対進化論」でした。


asahi.com(朝日新聞社):米空軍、核ミサイル発射担当将校にキリスト教で聖戦教育 - 国際
へーという感じです。へー。今時『聖戦』だなんてアメリカさんロックなことやってるなぁとか思ってたら、
朝日新聞報道「米空軍、核ミサイル発射担当将校にキリスト教で聖戦教育」への反応 - Togetter
「just war」の誤訳だったらしい。『正戦』と『聖戦』。全然違いますよね。日本語だと読みまで一緒なので同一視される方がかなりいそうな気はしますが。


さて置き、ウォルツァー先生*1も仰っていたことですけど、まぁ上記色々な反応を見ると聖戦は論外としてもそれでもやっぱり『正戦論』の議論の難しさが伝わります。それは両サイドからものすごい勢いでその存在自体を非難されてしまう構図。一方は平和主義の立場から「正しい戦争」などないと唱え、もう一方は現実主義の立場から「正しい戦争」などない、と唱えるわけです。故に議論がまぁ横道に逸れる逸れる。まぁ哲学の問題なんていつだってそんなもんだとは言えますけど。
つまるところ、この場合の「just」の定義が多様でかつ専門的過ぎるので、そこからはじめないと議論が全く噛み合わない。だからといってそれを「聖」とするのはさすがに無理があります。


本題。

米空軍が、有事の核ミサイル発射を担う将校向けの訓練の一環として、キリスト教の「聖戦」論を20年以上にわたり講義してきたことがわかった。「憲法政教分離原則に違反する」との指摘を受け、今年7月末に突然、取りやめていた。
米国と旧ソ連・ロシアの間では、冷戦末期から核軍縮が進展。核保有の必然性や使用の可能性は薄れてきた。民主的な議論とは無縁の「神話」によって、核の道義的な正当化を試み、延命を図ってきたことに、懸念の声が出ている。

asahi.com(朝日新聞社):米空軍、核ミサイル発射担当将校にキリスト教で聖戦教育 - 国際

アメリカ軍の中の人としては、実際にその瞬間になった時にボタンを押せない、なんてなったら困るので予め訓練なり教育なりしとかないといけないのは理解できる話ではあります。

そこでキリスト教牧師を用意するのがいかにもアメリカらしいと言えば確かにらしい話ではありますけど。そりゃ一部の人には効果はあるだろうけど、それが全員に当て嵌まるかというとそんなこと当然ないわけで。もっとより中立的な家族とか国家をネタにしとけばよかったのに。
その意味で、今後はその講師・牧師が呼ばれなくなる、そしてそのテキストが使われなくなる、ということ以上の意味があるのかというと大してありませんよね。やっぱり現代兵士たちにとって「ユス・イン・ベロ」な戦闘規定の概念は過去と較べてずっと重要なものになってきているのだから。聖戦教育はともかく、正戦教育がなくなるとは全く考えられない。
きっとこれまでもこの訓練を受けた人たちの一部は「いや別に牧師の話聞いても意味ねーし」とか考えてきたんでしょう。無意味な、効果のない訓練が無くなって良かったですねオチ。

*1:アメリカ合衆国の政治哲学者マイケル・ウォルツァー - Wikipedia/ちなみに彼の著作である『Just and Unjust Wars』の日本語版は『正しい戦争と不正な戦争』というタイトルになっています。