なぜ『革命』は奪われてしまうのか?

一発逆転を狙った人たちが、地道な努力を重ねる人びとに負けてしまう構図について。まぁ物語的には正しいお話ではありますよね。



「紫陽花革命」は通用するか:日経ビジネスオンライン
ということで最近の日本にも『紫陽花革命』なんてモノが登場したらしいですよ。……そろそろ『革命』ってつけると成功しても失敗してもほぼ負けフラグだってことにもういい加減気付くべきなんじゃないでしょうか。
ちなみに上記福島香織さんの記事では「デモなんかするよりふつーに投票した方が楽だよね」という身も蓋もないオチでまとまっています。先日のうちの日記でも書きましたけど、概ね同意見であります。ただまぁデモではなく投票という手段に訴えるならばやっぱりそれなりに前準備が必要なわけで。それがメンドくさいから革命とかやっちゃんだよね、と言ってしまっては身も蓋もありませんので禁句です。


ともあれ、『アリとキリギリス』あるいは『ウサギとカメ』の童話じゃありませんけど、革命を声高に・簡単に叫ぶ人たちの中に――もちろんそうではない人も当然居るんでしょうけど――現状の一発逆転を求めて楽に何かを変えてやりたいと考える人は少なくないんだろうなぁと。しかしそんな革命ごっこはやっぱり多くの場合で失敗してしまうし、仮に成功したとしても結果として地道な努力を積み重ねた人びとに簡単にのっとられてしまう。
一連の『アラブの春』なんか――特に成功したはずのエジプトの革命騒ぎなんかもそういう側面が強いんじゃないかと。革命騒ぎに浮かれているうちに、地道に足場を固めていた別の人たちに見事にのっとられてしまった人たち。
3・11以来の反原発の流れにしても、本来最大のチャンスであったはずが、しかし彼らは一般の人々の広範な支持ではなく一足飛びに『革命』なんてもとを求めるようになってしまった為に、地道な活動を続けた推進派に結局敗北しつつあるわけで。


そもそも不安や恐怖を煽ってばかりじゃ人びとの広範な支持は得られないのです。むしろ彼らはより不安な気持ちを抱いている人たちに「どうすれば安心できるのか」を説くべきだったんです。自らを望む世論を生み出すためにも、反原発の為に危険を訴えるんじゃなくて、反原発の為に安心を訴えるべきだった。絶望を謳うよりも、希望を謳ってこそ、支持者たる広く一般の人びとはついてくるのです。
現状に至った理由について、単純に利権構造や陰謀論に転嫁してしまう気持ちは解らなくはありませんけど、しかしかなりの面でそうした戦術の失敗こそが現在の「粛々とした再稼動」の状況を招いてしまったとも言えるんじゃないかと。



アラブ諸国イスラム教組織や、あるいはアメリカでのキリスト教組織など、人々に心に安寧をもたらそうとする宗教組織たる彼らはそうやって長年に渡る地元に密着した活動を続けることで確固たる地盤を築くことに成功しているのでした。結果として彼らは見事に政治的勢力として勃興している。だからこそ民主主義が進めば進むほど、そうした場所では宗教勢力が強くなっていくと。地道な宗教指導者たち。
革命なんていうギャンブルよりも一見遠回りのように見える地道な『一般の人々の広範な支持』を得ることこそが、結果として最も正解に近いのです。不安や脅威などネガティブな感情を煽ることでそれを実現しようとしても、安心や助け合いなどのポジティブな感情を共有する手法に長期的には負けてしまう。
結局、『革命』をいくらやったところで、地道に努力を重ねて草の根の政治活動をやっている人たちには敵わないのです。だってまさにそれこそが最終的な国民世論としての基礎となりうるんだから。
革命を希求する人たちがそういう地道な活動をやっているのかというと……、やっていたらそもそも革命なんか望まないわけで。かくしてからは半ば必然の結果として、『革命』を奪われてしまうのでした。