覇権的思潮のいない2012年

まわるまわるよ時代はまわる。喜び悲しみ繰り返し。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34281
国際関係だけじゃない、多極化する思潮について。

筆者が特定可能な中で最も顕著な新しい潮流は、非常に大雑把に言うと、右派のポピュリスト、社会民主主義ケインズ派リバタリアンハイエク派、反資本主義・社会主義者の4つに分けられる。

 こうした新しい潮流はいずれも、1978〜2008年に支配的だった思潮への反発だ。当時の思潮には中国の共産主義者、ニューヨークの資本主義者、欧州の穏健左派という名目上の違いはあったにせよ、目を引いたのはこの3者の議論の対立ではなく、むしろ一致点だった。

 自由貿易グローバル化の推進については、世界中の政治指導者が同じ見解を語っていた。格差の拡大は、成長を早めるために払う価値のある代償として受け入れられていた。訒小平は「豊かになることは素晴らしいことだ」と宣言し、この基調を定めた。ロナルド・レーガンマーガレット・サッチャーでさえも、これほど的確な表現はできなかったはずだ。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34281

ところが『自由貿易グローバル化の推進』による負の側面である格差について、多くの人が我慢できなくなりつつあると。そのどちらからも必然的に発生する副作用について。


さて置き、かつて近現代以降に二度あった――そして現在もまた起こりつつあるかもしれない――経済思想潮流の変化ってやっぱり、ただその思想の『正しさ』だけが認められた結果によって起きたわけでは決してないんですよね。
一度目の『市場経済の死亡宣告』も二度目の『計画・混合経済の死亡宣告』にしても、それはただその思想理論の欠陥が普及したことによって変化が起きたわけではなくて、同時に重大な危機が現実に起こったからこそ、結果として新しい経済思想が人びとに広く受け入れられることになったのでした。
大恐慌と世界大戦、そしてベルリンの壁崩壊といった重大な目に見える形での現実の変化によってこそ、人びとの思想の変化もまた起きたのです。
上記「1978〜2008年に支配的だった思潮」の始祖の一人たるシカゴ派のミルトン・フリードマンさんはその勝利の要因について次のように語っています。

個人がいくら主張しても、それで経済の方向が変わるわけではない。人間が果たせる役割は、危機が起こるまでの間、重要な考え方を維持しておくことだけだ。
私が説得したからわれわれの考え方が受け入れられるようになったわけではない。鶏が鳴いたから日が昇るわけではないのだ。集産主義は、経済の運営方法として、はじめから成り立ちえないものだった。
考え方の変化をもたらしたのは、現実であり、事実である。マルクスがいうところの歴史の必然だったのだ。*1

その意味で、現在起きているのはまだその助走期間でしかないとも思うんですよね。まだ人びとの意識を決定的に変えさせるような重大事件が起きていない。このまま何も起きないかもしれないし、もしかしたら何か起きるかもしれない。
それが先進各国での格差や失業への大規模な民衆蜂起なのか、ユーロの破綻なのか、アメリカの破綻なのか、はたまた日本の破綻なのかはさっぱり解りませんけど。もしそれが起きるとすればそうしたインパクトのある事件によってこそ、なのではないでしょうか。


まぁ結局のところ、1929年からの「市場への不信」も、そして1978年からの「政府への不信」にしても、やっぱりそれが完全に否定されるわけではないんですよね。一度失敗したからといって市場の持つ役割が完全に否定されるわけではないし、当然政府の知識の限界についても、限界があるからといってそれを完全に否定できるわけでもない。故に前回は一周回って市場経済重視だったし、今のケインズ先生ブームのように次はまた一周回って混合経済がやってくるのかもしれません。
不完全な私たち人類が完全な経済の統一理論など持てるわけがない以上、そうやってやっていくしかないのでしょう。経済の万物理論なんてやっぱりありえないのだから。*2
私たちは市場と政府が両端にあるバランス棒を持って、経済を綱渡りさせていくしかないのかなぁと。一方に傾きそうになったら、もう一方へ傾けて長期的にバランスをとっていく。
そしてまた時代はまわっていくと。みゆき良いこと言ってます。

*1:『市場対国家』P258

*2:何故それができないのかは哲学的分野にいっちゃうのかなぁと。哲学的ゾンビなお話とか。よく解りませんけど。