反日暴動の果てにあるもの

私たちの側でもいい加減ニュースとして消費され飽きられてきた感あるので、そろそろ適当なお話をしても許される頃合かもしれないので以下適当なお話。


平和堂:中国の反日デモ被害、35億円に− 毎日jp(毎日新聞)
反日デモ「平和堂」被害5億円 NHKニュース
あちらでは今尚燻り続ける『反日デモ』でありますけども、最も早くから暴動の襲撃対象になっていた平和堂さんは被害総額35億だそうで。がんばれ平和堂。結局、こうして平和堂をはじめとしてそれはもうアレやコレをぶっ壊してみせた彼らが何をしたかったのかよく解らない辺り、こちら側としてどうしても生暖かい気持ちになってしまいますよね。一体彼らは何をしたかったのか。窓ガラスを割るのに何の意味があったのか。盗んだバイクでどこへ走り出したかったのか。


ということでそんな彼らの真の目的についてはよく解らないしどうでもいいのでここではさて置くとして。今回の件について個人的には、暴動は暴動でも、彼らがその成功と繁栄の象徴たる外資にまで手を掛けていることって色々示唆的だなー、と思うんですよね。
もちろん彼らは熱狂しているだけで実際そこまで大したことを考えていないだけだ、と断じることもできるんですけども、しかしそれでも「中国に海外の投資を呼び込んだから」こそ彼らは世界第二位の経済大国にのし上がる事ができたわけで。訒小平さんが始めた経済の自由化は、当時は中国国民から「金持ちになる自由」として熱狂的に迎えられたというのに。
これまではその素晴らしき『経済的自由』を謳歌していた中国の人びと。現代の自由民主主義国家に生きる私たちからするとそのこと自体はあまり実感することができませんけども、しかし元々「なにひとつ」国民としての権利などなかった中国の人びとにとっては、やはりそれはとても重大な変化でありました。訒小平さんは「政治参加の権利」については一切諦めさせる代わりに、「自由に金を稼ぐ権利」を国民に解放してみせたのです。そんな足元を見られまくった取引でもかつての中国国民の皆さんにとってはそれでも十分でした。なにせ中国の歴史でそもそも国民国家という概念が根付いたことなど一度も無かったのだから。小さな一歩であろうと、しかしそれは大いに喜ぶべき一歩だったのです。
結局のところ、訒小平さんが進めた改革とは「経済は好きにやっていいが、政治に口を出そうとすることは一切許さない」ということを中国国民と中央政府との間で結んだ(歪な)社会契約でした。それでも歪であろうと何であろうと、結果としてその社会契約は大成功でした。抑圧されていたパワーを全て経済につぎ込んで見せた中国の人びと。その政治と経済の分担作業はその後の歴史が証明しているように、見事に中国の大躍進(皮肉ではなく)をもたらしたのです。少し前までの日本でも、対中国は政冷経熱、なんて言われていたのも当然ですよね。だってそもそも政治と経済の相手はあちらでは明確に分担されそれぞれ別々だったんだから。
少なくともこれまでは。
しかしその稀少性は最早薄れてしまいつつある。20年30年と経つ内にそれは「あって当然のモノ」という認識になってしまったのです。かくしてそれは破壊されまくった。



怒れる一部中国の人びとは「政治参加の権利」の代償として手に入れたはずの「経済的自由」をあって当然のモノとして、まさに疑いの余地なく自らの領域にあるものとして(同時にまたそんな経済的自由が招いた敗者の恨みとして)、ぶっ壊して見せた。まぁそれだけで済めば話は簡単だったんです。しかしその訒小平さんがもたらした社会契約の内の一方が揺らぐということは、必然的にもう一方までもが揺らいでしまうことになってしまうんですよね。
もし、経済的自由が当然の権利であるとするならば――あるいは最早そこに何の重みもなくなってしまったら、彼らが『代償』として支払っているものは一体何の為にそれを差し出しているのか? 政治参加を諦めていることの正当性ってなんなのか?
つまりこのことは間接的に、かつて訒小平さんが進め大成功させたはずの中国独自の社会契約の意味が、現代に至り徐々に失われつつあることの証左ではないかと思うんです。


そんな訒小平さん時代に編み出された中国独自の社会契約の陳腐化について。中国国内において、差し出したモノと手に入れたモノのバランスが均衡しなくなりつつある、ということこそを今回の暴動は示唆しているんじゃないかなぁと。ならば次は一体何処へいくことになるんでしょうね? 
このまますんなり民主化が進むなんてことは当然考えにくいですけども、しかしかつてとは違う新たな「社会契約」が必要になることは明白です。だって最早彼らは経済的自由にそこまでの価値を見出さなくなっているのだから。おそらく次も、私たちがよく知る国家と市民の社会契約にならないことはほぼ確実でしょう。おそらく次もあの訒小平さんのそれと同じくらい歪なモノになるに違いない。一体それはどんな形を持つことになるのか、というかそもそも前回並みの素晴らしいアイディアが彼らの側に存在しているのか。第二の訒小平はそこにいるのだろうか。
近い将来中国さんちの中央政府とその国民は、一体どんな社会契約を新たに結ぶことになるのか、「わたし、気になります!」オチということで一つ*1



みなさんはいかがお考えでしょうか?





追記「経済的自由」の用語について

ブックマークコメントで「経済的自由とは租税法定主義と私有財産の保護の確立の事なので、中国では成立して無い」というご指摘を頂きました。
確かに中国におけるそれをただ「経済的自由」と本文のように書いてしまうと、基本的人権の一つでもある『経済的自由権』のそれと中国の現状は全く違うだろうというのは確かにその通りであります。ということで訂正及び補足として、ここでは私たちのよく知るそれではなく、「経済的自由=(党の意向に逆らわない限りにおいての)経済的な自由が保障されている」という辺りで読んでくださると幸いであります。
しかしそう考えると、国家と国民との関係だけでなく、私たちと彼らにとっては一応は同じ資本主義の舞台で生きていながら、そこではやはり『経済的自由』の定義も異なるのだなぁと。つまり『(中国独自の歪な)経済的自由権』であると。しかし実際に中国さんちはそれでこうして成功してみせたわけで。案外これが流行ってしまうことがあるかもしれませんよね。


ともあれ、上手い言葉が見つからずに深く考えずに単語を使ってしまうのは悪い癖だと自覚しております。ご指摘ありがとうございました。

*1:終わって寂しい。