欧州連合の古くて新しい『民主主義の赤字』という問題

欧州連合さんちの家庭の事情、なお話。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34470
を見ていて改めて考えた欧州連合のあれこれについて。


自国の権限喪失に発言権を与えられない市民

では、市民はどうだろうか? 市民は、国家の権限喪失について、ほとんど発言権を与えられていない。どのように富を築き、分配するかを決められないような民主政治には何の意味もない。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/34470

元々欧州連合にとって『民主主義の赤字』という批判は、まぁ使い古された批判の一つでもあったわけです。「よくて退屈、悪くすれば危険な、顔も感情もないブリュッセルの欧州官僚によって動かされている」だとか「誰に対しても責任を負わない新手の政治家」だとか。選挙という過程を経ていない官僚たちが欧州連合の政策を決定するのは民主的とは言えないのではないか、と。
故にそれは欧州連合の改革を強く推し進めた著名な人物――EUの単一市場化を強力に推し進めたジャック・ドロールのように――であればあるほど、そんな風に批判されてきたのです。


しかし現在のユーロ危機とその救済策を巡るグダグダな議論の中で新たに浮上してきたものは、上記引用にも書かれているような、従来とはまた別の新しい『民主主義の赤字』であったのでした。
つまりそれは「救済と引き換えに国家主権が侵される」と訴える一方と、そして同時に「金を払っているにもかかわらず口出しさえできないのはおかしい」と訴えるもう一方という、一方を立てればもう一方が立たない二律背反そのまんまな構図が生まれてしまったのです。確かに両者共に言っていること自体はそれなりに正当性のあることなんですよね。「国外の第三者に予算案を監視される」のは真っ当な民主的選挙で選ばれた政府のされることはとても思えないし、しかしそれと全く同じ論理で、「自らが納めたはずの税金が正しく使われるべきだと要求すること」もまた正しい権利ではあるのです。
まぁぶっちゃけてしまえば完全に二者択一である以上、このジレンマを解決することは不可能ですよね。どちらか一方を守れば、もう一方は必然的に守れなくなってしまう。どちらを選んでも欧州連合の民主主義は後退するしかない。


そのどちらを選んでも結果が同じ以上別の点で較べるしかない、となるのはまぁ不思議ではありませんよね。そしてその両者それぞれに付随していた『国家主権』と『欧州連合の一体性』のどちらを選ぶのかという選択肢に直面したとき、彼らはごく当たり前に後者を選んだのでした。そりゃそうですよね、その母体である欧州石炭鉄鋼共同体から第二次大戦以降の殆ど全ておよそ60年以上を掛けた欧州統合という壮大な事業は、今更捨てるには大きすぎるのです。
まぁそれと同時に、金の出す方という「より強い立場」であったドイツのポジションが選択されることになった、という身も蓋もない話でもあるんですけど。


さて置き、ではそんな選択がなされた背景が、ただ単純にドイツの影響力が増加したから、という点だけから導かれたのかというとそれもまた微妙に間違っているわけです。むしろそれは現在の危機を受けてのドイツの選択というよりは、シラクシュレーダーの前首脳時代から続く独仏の蜜月関係が現在に至り「メルコジ」なんて揶揄されるまでになった、フランスのポジションがよりドイツ寄りになったからこそ、であるのでした。


以下次回。