安全神話R

その「R」はreturnでもrevisionでもreferenceでもお好きなようにすればいいと思います。お勧めは最後です。『3・11』以後の日本においてこれが新たな――標準たる安全神話なのだ、的なRがよろしいのではないでしょうか。



時事ドットコム:雪遊びイベント中止に=「放射性物質心配」の声−青森の630キロ無駄に・沖縄
まぁなんて愉快な人たちなんでしょう。おわり。でもそれだけじゃ寂しいので以下適当なお話。


個人的にこの構図に近いお話として思い出すのが、最近少し話題になっている某オセロの黒い方と霊能者がなんちゃら、なお話であります。
以前も少し書いた気がしますけど、結局のところ私たちはその周囲から受ける情報によってそのポジションを刻々と変化させ続けているわけです。それはただ思考や論理や形而上といったものについてだけでなく、物理的な知覚をも左右してしまうものであるのです。多くの社会心理学の実験で言われてきたように、例えば自分が60cmの長さだと思った棒について、残りの10人から口を揃えてこれは30cmだ、と言われ続ければいつしか自分にもそう見えてきてしまったり、あるいは少なくとも50cmや40cmへと自発的に修正してしまうのだと。
まぁ結局のところ、この沖縄の雪にしても、そしてあの女性霊能者についても、そういうお話ではないかと思うんですよね。
『人は遊び友達を選ぶことによって神々を選択する*1』のだから。物理的な知覚でさえ左右されてしまう私たちの認識について、いわんや政治的・審美的問題をや。
そんな彼らをそれこそバカ正直に説得しようとしたところで、まぁハードルの高いお話ですよね、と纏める以外にありません。彼らのそのポジションはその仲間たち・霊能者によって正当化されているわけだから、そこから引き離さない限りどうしようもありませんよね。しかし一般にそうした彼らは自発的な選択によって、その影響されるべき情報を取捨選択しているのでした。なんという自家発電。無敵すぎます。


ともあれ、別に「あいつは御用学者だ!」とか「政府発表は信用できない!」とかそれを『疑う事』自体は別に良いんですよ。むしろ何にしろまず疑ってかかるその姿勢は誉められる点とさえ言えるでしょう。ただ何故か、一方を無謬ではないと拒否したわりに、もう一度他の別の完全な何かを求めてしまっているんですよね。なぜ以前のそれを疑っておきながら、今回のそれを疑おうとはしないのかと。その意味で一歩進んだように見えて実は一歩も進んでない人たち。安全神話を否定した口で、再び別の安全神話を求めている人たち。
まぁなんというか彼らの報われない不毛な努力を見ていると、その意味でどこまでいっても(沖縄までいっても)救われない人たちだなぁ、と怒りや呆れというよりもなんだか生暖かい気持ちになってしまいます。

*1:P・L・バーガー『社会学への招待』P176