社会的安全保障の限度はどこにある?

その伝統や文化や生活様式を守るためならば、私たちはどの振る舞いまで許されるのだろうか?


「不実な娘許さぬ」、父親が娘を斬首・焼殺 インド 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
まぁゲスい。おわり。
でもそれだけじゃ寂しいし、何か書いておけばさんかくは貰えるかもしれない。ということで以下適当なお話。

【6月22日 AFP】インド北西部ラジャスタン(Rajasthan)州の村で、娘(22)の不倫に怒った父親がこの娘の首を剣で斬り落として殺害する事件があった。同州の警察当局が19日、明らかにした。娘は夫と別居していたという。

 事件があったのは、州都ジャイプール(Jaipur)から300キロ離れたラージサマンド(Rajsamand)地方のDoongar Ji Ka Gurha村。AFPの電話取材に応じた地元警察によると、殺害された娘は3年前に結婚した後、夫と別居し別の男と関係を持っていた。オガド・シン(Oghad Singh)容疑者は、浮気を止めるよう何度も説得していたが娘が耳をかさなかったため腹を立て、17日夜に自宅で娘の首を斬り落としたという。

「不実な娘許さぬ」、父親が娘を斬首・焼殺 インド 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

かくしてこの父親は『伝統的価値感』を守ろうとして自分の娘を殺害するに至った。
しかし今回の事例で言えば別に難しいお話ではないんです。それはほとんどの人は当たり前に「殺すのはやり過ぎだ」と答えるだろうから。彼の文化や制度や生活様式といった伝統を守るためとはいえ、さすがに殺すのはやりすぎだろう、と。まぁ確かにその通りではありますよね。
問題なのはそうではなくて、「やり過ぎでない」場合ならば、親は子供に対して社会的安全保障の名の下に伝統的価値観を強制する事が許されるのか? というお話なんです。一体どこから先がやり過ぎなのだろうか?

    • もしこれが暴力をもって娘に無理矢理言うことを聞かせていたとしたら――おそらくそれも多くの人が否定するでしょう。
    • もしこれが父親という権威を利用して娘に暗黙のうちに、その伝統的価値感を強制してしていたら?
    • もし初めからそうした他の選択肢など与えないようにして、洗脳と近いレベルで教育していたら?
    • もし親というポジションを利用して、娘もそうして欲しいと情に訴えていたとしたら?

もちろん親としては、当然かなりの面で「良かれ」と思ってその伝統を残そうとしているのでしょう。自分たちが受け継いできた(素晴らしい)文化を子供にも受け継いでいって欲しいと。
しかし結局こうしたことをやっていれば、そのどれを採ってもその娘(息子)には選択の余地としての『文化的自由』はなくなってしまうんですよね。勿論今回の殺害の事例は問題外です。それでも「問題にならない程度」の上記のような伝統的価値観の強制なんてほとんど何処にでも見られる光景ではあるのでした。そして更に踏み込むと、親子関係ではなく同じ共通の価値観を持った同族たちには何処まで干渉が許されるのか? という更にめんどくさい問題があったりします。


ともあれ、多文化主義という建前の元に生きる私たちは、こうして彼らの伝統的価値観の保護という名目で、文化的自由が侵害されていることを見て見ぬフリをし続けているのです。そのくせやり過ぎて殺されちゃったりした時だけこうして騒いでみたりする。しかしこうやって「問題にならない程度」に伝統的価値観を後世に伝えていくからこそ、同時にその多様性は保持されているとも言えるわけで。そうやって必死になって伝えていくからこそ、少数派な文化や伝統は存続してきたのです。
こうした構図について、アマルティア・セン先生は著書『アイデンティティと暴力』の中で「私たちは多様性を維持する為に、文化的自由を引き換えにしなければならなくなることがある」と身も蓋もなく述べていらっしゃいます。それこそ上記のような親や隣人に伝統の名の下に抑圧される子供たちのように。


かといって、そうした多様性の保持そのものを否定してしまえば、文化的自由の前提条件さえ崩れてしまうわけで。だって選択の余地があるからこそ、そもそもその自由には意味があるんだから。しかしその多様性の維持の為には「ある程度の」文化的な自由を後退させなければならない、と。いやぁめんどくさいお話です。
多文化主義に生きるとされる私たちはそのトレードオフについて、一体どのバランスを目指しているのでしょうね。マイノリティな人びとの伝統教育を「自由の抑圧」と見るべきなのか、「多様性の維持」と見るべきなのか。そのコンセンサスを形成しないまま多文化主義だのなんだのいったってそりゃ失敗しちゃいますよね。
みなさんはいかがお考えでしょうか?