イケニエにされるリーダーたち

新しいスケープゴートの形。


http://kousyoublog.jp/?eid=2725
普段から大変勉強になっているkoushoublog様の記事より。

現代社会でも閉じた共同体の秩序生成・維持を目的とした「生贄」が人の形を取ることがある。犠牲となった人を聖化することで、共同体の中の相互暴力(カオス)の存在を覆い隠し、生贄の風習を温存した秩序の維持に与することになる。本来ならば自身がその責を負うはずの未開の王の如き共同体の指導者は高らかに謳いあげる。彼・彼女の犠牲を無駄にしないために崇高な理想の実現に邁進すると、共同体の中に存在する暴力の存在を覆い隠した秩序を維持すると。それによって自身の身代わりとなった犠牲を神聖なるものに祀り上げ、共同体に受容させた神話を作り上げる。

共同体にとって「生贄」の構造が包含されざるを得ないものだとしたら、その「生贄」に人の形を与えない、「生贄」としての立場に自分を追いやらないために、「生贄」を人間以外の象徴的な事象にいかに置き換え、かつ根本的なカオスの存在に向き合って解決させるかが、ありきたりな結論かもしれないが、現代社会の様々な共同体で生きる我々にとって、とても重要なことなのだと思う。

http://kousyoublog.jp/?eid=2725

すごく面白いお話だなぁと。
このお話をみていて思い出したのがナイ先生の『リーダーシップ論』で、そこで述べられていたように現代社会におけるリーダーたち――政治家や企業経営者やスポーツの監督は、その多くが実際こんな感じでスケープゴートにされているんじゃないかと思うんですよね。


かなりの面で市民社会が普及した素晴らしき世界では「本来ならば自身がその責を負うはずの未開の王の如き共同体の指導者」が明確に設定されず、その責任と権力がその下部構造に位置する市民・大衆・構成員たちに分散付与されているからこそ、逆説的に私たちの社会ではより明確な形での責任者=スケープゴートを必要とするようになっている。
そこで人びとはイケニエとしての立場に自分を追いやらない為に、ある種の『異人』でもある(と思っている)リーダーたちを、まさに総意として人身御供として捧げ奉る。
まぁもちろん実際に失態を犯したリーダーも少なくはないでしょうし、最近の例を考えただけでもアレやコレやら色々思い浮かんでしまいます。ただ、やっぱりそれって少数派なんじゃないかとも思うんですよね。大抵の場合ではそこまで「失敗の原因」にはなっていないにも関わらず、誰かを明確に「失敗の象徴」として祭り上げることでその混乱に終止符を打とうとしてしまう。確かにそれは責任者として正しく責任を取らせているということもできなくはないんですけども、しかしその一方で責任者のクビを切ったところでやっぱり問題解決にはほぼ何も寄与していないわけで。その意味では元号を変えるのと同じくらい現実的には意味はないけれども、人心をリセットさせる、という点においては効果があると言えるのかもしれません。


こうした構造がまた同時に示しているのは、成功を収めることができさえすれば厳密には「成功の原因」でもないに関わらず、そのリーダーは「成功の象徴」として祭り上げられることになると。
そりゃ結果としてリーダーや責任者の給料は暴騰してしまいますよね。こんな生贄か英雄かの紙一重のポジションなんて恐ろしすぎて普通の人にはとても無理です。


この辺のお話は、昔はどこにでもあった魔術信仰のようなモノや、あるいはかつての日本の元号を変える様なノリと、基本的には何も変わっていないのでしょう。まるで成長していない私たち。でも仕方ないよね、だってそうした方が安心出来るんだから。まるでコントロールが出来ないままでいる位なら、嘘でもいいから何か法則をでっち上げてしまった方がまだマシだ、という気持ち。
天災や飢饉や疫病から逃れようとする一心で生贄を捧げた彼らと、失敗の原因を明らかにしたい一心で誰かを生贄に捧げようとする私たち。
正体不明の『カオス』から逃れることのできる、たったひとつの冴えたやり方。まぁやっぱり未来の人たちからすると、現代の私たちが「天災の度に元号を変えるなんてバカみたいなことをやっているなぁ」と思うのとまったく同じ地平から、「不祥事の度にリーダーをクビにするなんてバカみたいなことやっているなぁ」と思われてしまいそうではありますけど。