もう猫はストーブの蓋に登れない

最初の失敗に支配されてしまう猫たち(byトウェイン先生)について。


http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36370
ということで『9・11』の呪縛に囚われたまま、のようにしか見えないオバマさんとロムニーさん。二人はバカだなぁ。でもそれだけじゃ寂しいので以下適当なお話。

 11月6日の結果を左右する最大の要因として、経済に取って代わるものはない。だが、ここでも討論のテーマは、除外された問題という点で多くを物語っている。国際通貨基金IMF)によると、世界経済に占める米国のシェアは2001年以降8ポイント低下し、23%になっている。

 にもかかわらず米国の競争力は討論のトピックにならなかった。どうやら、世界を見るレンズとして9.11と張り合えるものは存在しないようだ。ロムニー氏が米国の「一番の地政学的敵」と呼んだにもかかわらず、ロシアは討論で取り上げられることはなかった。西半球も議論されず、欧州、アフリカ、中国以外のアジア諸国も話題にならなかった。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/36370

端から見て――それどころじゃないにも関わらず「何でこの人たちは今尚そんな所にこだわっているんだろう」という指摘は、やっぱりそれなりに正しいのでしょう。
ただまぁ以前の日記でも少し書いたことですけども、やはり彼ら大統領とその候補者にとって「二度目の」9・11というリスクは、たとえそれがどれほど小さなものであろうとも無視するわけにはいかないのだろうなぁと。当事者だからこそ、万が一の際に責任を負わねばならないポジションだからこそ、それを額面通りのリスクの大きさとして扱うわけには絶対にいかない。
もし、もう一度あのような大惨事を招いてしまったら、その時はブッシュさんのような顛末にならずにほぼ確実に政治生命が絶たれてしまうだろう、という9・11以後の大統領たちが否応無く直面せざるをえない現実的な恐怖について。
このお話で皮肉なのは、その恐怖に支配される大統領というポジションの一方で、しかしアメリカ国民や公的機関の多くは前回を教訓として「より」冷静な対応を採ることが可能だろうということなんですよね。
もちろん完璧になっているとは決して言えませんが、しかし一度目の惨禍を教訓として防止策やダメージコントロールの能力はそれなりに向上しているわけで。単純に比較した場合、二度目の際はより少ない被害で抑えられるだろうと言うのは真っ当な予測であるでしょう。しかし、そんな教訓があるからこそ、9・11以後の大統領にとってはむしろ二度目を招いてしまうことは大統領の『不作為』を批判されることになるだろう、というのはほとんど確実な宣告であるのです。
ブッシュさんの時は(100歩譲って)『奇襲』を受けたと擁護することはできたとしても、しかし次は絶対に許されない。その失態はまさに最高指揮官である大統領の責任となってしまう。文字通りスケープゴートとして*1
直接的なテロによる被害を抑制することはできたとしても、しかしその一方でテロがもたらす副次的効果としての大統領の指導力への政治的なダメージは、むしろ増大しているのです。そりゃその悪夢を無視できるはずなんてありませんよね。



この辺の構図は、私たち日本の政治家――与党の民主党の皆さんが原発稼動問題でまったく動けなくなっている構図と少し似ていて愉快だなぁと思ったりします。
万が一「次」があったとしても、私たちも今回の知見や改善された対応策をもってすれば、おそらく次はもう少し上手く対応できるでしょう。しかしその次を招いてしまった責任は必ず前回よりも大きな声となるに違いない。被害自体は小さくなる可能性の方がずっと高いはずなのに、そんな不作為がもたらす恐怖に怯えて動けなくなっている人たち。だから現政権の人たちが内心では動かしたい気持ちが勝っていたとしても、反対派な人が怒るほど再稼動へは平坦な道のりではないし、逆に推進派の人たちが言うほどその心理的なハードルを越えるのは簡単にはいかないのだろうなぁと。前にも後ろにも進めなくなってしまう。
でも仕方ないよね。だって当事者なんだから。
だからこそこうした状況下においてしばしば見られる、なんとなく不安を感じる国民世論はともかくとしても責任ある政治家はきちんとリスクを勘案するべきだ、という第三者からの客観的で至極真っ当な指摘は虚しく通り過ぎていく。上記9・11以後のアメリカさんたちがそうであるように、したり顔で世界中から説教される「さっさと日本は原発動かせよ」という声は、おそらく当事者とならない限り理解されない心理状況なのだろうなぁと。


まぁ政治家って利己的でどうしようもないよなぁと言ってしまっては身も蓋もありませんけども、もし仮にその二度目を招いてしまったら政治的に「確実な死」が待っていることを考えると無理はないよなぁと生暖かい気持ちになってしまいます。
かくして、一度熱いストーブを知ってしまった猫たちのように、政治家たちも同じように二度目以降の冷えているストーブにも登れなくなってしまうのです。その不作為こそを恐れてしまう故に。