かつてあった『祭り』としての戦争

無意味な装飾に満ちた派手な兵士(ロボット)たちが戦う時代が再びやってくる、かもしれない。


続・妄想的日常 第一次世界大戦の泥臭さは異常
のお話を見ていてふと考えたお話。もちろんそんな馬鹿みたいに派手な兵士は時代遅れとなったけれども、でもこのまま無人機が主流になっていけばいつか、ステルス性を重視した兵器の一方で、象徴性を持たせた派手な無人兵器も一緒に出てくることになるんじゃないかなーと。
無人機の登場によって戦争は、再び、その操縦者たちという限られた人たちのお祭りへ。戦争が国民たちの手から離れる時代がくるかもしれない。
――という日記を書こうと思ったら、なぜか前振りだけで長くなりすぎたので今回はこの辺で勘弁しておく。ただでさえ纏まらない日記が長いと更に悲惨になってしまうしね。あと一回で二日分の日記が埋められておいしい。


かつて一部の人間だけが参加することを許されていた『祭り』としての戦争について。


第一次世界大戦の泥臭さは異常 機関銃の大群に毎日何十回も突撃とかマジキチすぎるだろ…
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1374985264/

51 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[] 投稿日:2013/07/28(日) 14:54:05.25 ID:HJsUPpzpP
この頃のフランス軍ってドイツ軍にコテンパンにやられっぱなしだったんだけど
目の覚めるようなブルーの上着に、これまた目が覚めるような真っ赤なズボンという
オシャレを意識したフランス軍の制服が原因の一つだったんだよね。

目立って仕方なかったという。

ちなみに迷彩服を開発したのはドイツ軍。

続・妄想的日常 第一次世界大戦の泥臭さは異常

まぁ実際ド派手なものでしたよねぇ。偉ければ偉いほど派手になっていく軍人たち。とはいえ、現在から見るとまったく非合理的で異常に思えるそれも、むしろ現代の軍にあるような、まったく地味で合理性の極致である軍服、という認識の方が歴史における例外でもあるとも言えるんですよね。


つまり、人間の歴史ではその多くの部分で――少なくとも文明社会が生まれて以来ずっと――戦争とは『祭り』だったわけであります。娯楽の少なかった時代には、流血こそ伴うものの、しかし大きな興奮を味わえる楽しみの一つでもあった。セックスか戦争か、というのは現在でこそ表向き蓋をされた動物的な欲求ではありますが、しかしそんなものなかった時代にはまぁあけすけにその楽しみが語られていたわけです。
それこそ古代ギリシャや古代中国などから語り継がれてきている戦争の物語を見ても解るように、それは常に勝者と敗者、栄光と挫折、興奮と熱狂が支配する空間であったわけです。私たち日本の歴史を見ても、偉い人ほど無駄に派手な武者鎧とか着ていましたよね。
それを現在から振り返ってみて野蛮といっては身も蓋もありませんけど、人類の歴史における娯楽というカテゴリーの中で、多くの文化において普遍的な一つを占めてきたことは間違いないでしょう。故にそんな『祭り』に参加する兵士たちにとって派手な格好(もちろん武威を誇るという意味もあって)はむしろ必須であったし、むしろ戦争「だからこそ」兵士たちは着飾り、歌を歌いながら喜び勇んで戦場に赴いていったのです。


そしてそんな『祭り』としての戦争は19世紀の前半頃に遂に一つの極致を迎えます。つまり戦争というのは短期で、局地的で、文明化された形で行われるものである。
戦争は始まった瞬間――あるいはその前からもう既に外交として調停者が、どちらが勝つにせよ戦後に提示される解決策を用意しているだろう、と。1864年に創設された赤十字が生まれたのも単に人々の進歩の証というよりは、そうした娯楽としての戦争が、兵器の発達によってあまりにも残虐さを増していかないように、と各国が一致して制限しようと採択を進めたわけで。
1990年の湾岸戦争以来「ゲームのような戦争」と報道でもよく言われてきましたけど、むしろあの時代こそ、本当に娯楽でありゲームのような戦争状況であったんですよね。当時のヨーロッパの彼らは外交によって上手く抑制された戦争を、それこそ気軽に楽しんでいた。
だからこそ人類の歴史の多くでは、軍人(=貴族)は特別扱いされてきたのです。それは単に「戦うから偉い」のではなくて「偉いから戦える」という意味もあったです。
戦争は軍人のものであり、戦争とは兵士にだけ許された祭りである。
そんな中で登場するのが国民国家であります。国家や政府というものが(当時はまだ道半ばだったとは言え)ついに国民のものなったということは、同時に戦争という『祭り』も国民全てに与えられる娯楽とされるようになったのです。現代に生きる私たちから見るとそれはどう見ても死亡フラグにしか見えないそれも、しかし未だ「総力戦」というモノをほとんど予測していなかった第一次大戦前の人々が考える戦争とは、伝統的な祭りそのものだったのです。
――ついに戦争「も」自分たち国民のものになった。
かくして多くの人々は、あの血と泥で塹壕が埋まる前線へと、派手な軍服に身をつつみ、ボタンホールに花を挿し、歓声を背に受けながら、口々に歌をうたいながら揚々と出発したのです。もちろんそれは一部の人びとによる扇動という面もあったわけですけども、しかしそれに負けない位彼らは自発的に『祭り』としての戦争に対する高揚感に包まれてもいたのです。

顔見知りの人間は誰も居なかった。それでも全員が一つの熱い感情をともにしていた。戦争だ、戦争だ、そして誰もが一つに結ばれたのだ。

戦争だ! ついに戦争が始まるのだ! - maukitiの日記

階級も、人種も、住んでいる場所も違う人々さえも等しく熱狂できる祭り。つまり戦争であると。




ところが戦争は、人間の飽くなき進歩と効率化の執念によって――上記赤十字の創設にも見られていたように――最早まったく違うものになり果ててしまっていて、それはもう一部の人々の努力(外交)ではどうにもならない所にまで進化してしまっていたのでした。兵器はより効率的に進歩を遂げ、かつては一部の軍人のみが気にするだけだった戦争の趨勢も国民すべての関心事になってしまった。軍人同士で楽しんでいた戦争は、国家全て=国民全て、という地平にまで広まってしまった。
伝統的な祭りとして戦争は終わり、国民全てを否応なしに巻き込む総力戦の幕が開くのです。まぁ結果論として考えてみればごく当たり前の帰結ではありますが、しかし当時の人たちにはきっとそうではなかったのだろうなぁと。


当時あったあの熱狂の様相と兵士たちの派手な制服を見ていると、とってもレミングスな姿で、なんだか悲しい気持ちになってしまいますよね。