とある革命の存在理由

最終的にそれを定義するもの。


新憲法をめぐり混迷深まるエジプト、15日国民投票へ 写真3枚 国際ニュース:AFPBB News
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ということで益々ヒートアップするエジプトさんちであります。大統領対司法関係者。政府支持派対反政府派。事実上結果の見えている国民投票。そして傍観する軍部。いやぁまるで時間が巻き戻ったかのようですよね。
しかしそれでも彼らがこうして燃え上がってしまう気持ちは解らなくはないんですよね。いつだってそんな新しい『憲法』こそが、これまでの『革命』の集大成であるわけだから。故に彼らは必死になってしまう。そこで引いたらこれまでの努力そのものが無になってしまう。敵の敵は味方だから、とばかりに手を組んでいた人たちが、ついにその関係性が元々味方なんかではなく敵の敵に過ぎなかったことが露見してしまう瞬間。
その利益が決定的に対立することになる新憲法の草案。革命の集大成。そしてつまり、帰還不能点であります。


といってもそれはほとんど全ての急進的な革命――及び類似した体制転換――が辿った道でもあるんですよね。大抵はロクでもないことになってしまう。だからこそ私たちは僅かな成功例をして「なんちゃらの春」と呼ぶわけで。かくして冷笑的な人たちは革命だのなんだのと聞くと「どうせ混乱するに違いない」という反応を返すのです。
そうした憲法をめぐる内紛は、一応は成功例とされる大日本帝国憲法でも、あるいは米国独立戦争後の権利章典をめぐる議論でもやっぱりあったわけで。
サミュエル・エリオット・モリソン先生はその著書『アメリカの歴史』の中で、その難しさを次のように述べています。

「近代の歴史を振りかえってみれば、断固とした決意をもった少数派にとっては、政府を転覆させるのは案外簡単なことである。しかし、転覆後、新しい基盤の上に法と秩序を立て直し、再建の仕事を達成させることは決して容易な業ではない」

故に、革命と再建を当事者たちの世代だけで完遂させることの難しさ――翻ってそれを達成できた建国の父たる人びとの努力は称賛されるに値するものである、と。破壊より創造する方が難しいよね、で終わってしまうお話ではありますけど。


さて置き、今回のエジプトの構図で殊更に脱力してしまうのは、おそらくこれが逆のポジション――世俗派が権力を握っていても――似たような事が起きてしまったのだろうなぁと予測できてしまう点ですよね。
バラバラの彼らを結びつける妥協ようななにか。本来そうしたモノこそが必要だったのにね。いやまぁエジプトにおけるイスラム勢力と世俗派リベラル派がお互いに納得できるような『妥協の束』を生み出すのはそれこそ難題でもあるわけですけど。せめてどっちかが完全に優勢だったら話は簡単だったのにね。
しかし、ずっとその困難さを指摘され続けているように、エジプトはそうではなかった。世俗派とイスラム勢力が「それなりに」拮抗してしまっている。更にはそれが選挙結果という形で後押しされてしまってもいる。
かくしてまるで運命のごとく対決へと至ってしまう彼ら。


がんばれエジプト。