ああ、すべては国際世論(ワールド・オピニオン)の選択のままに

ソレハオウベイ・ノ・ロンリニ・スギナイダロウト・イワナイデ。



慰安婦論争NYT記者vs池田信夫 - Togetter
NYT タブチ・ヒロコ vs 池田信夫 第二弾 - Togetter
いやぁメンドクサイお話でありますよね。
それでもこの問題で敢えてどちらなのかと言われれば、個人的にはまぁ前者に与する所ではあります。私たち日本人は慰安婦問題に真摯に向き合わなければならない。自分たちの気持ちをほんとうに解って欲しいのならばそう努力すべきだし、それが嫌なら黙って従うしかないんですよ。黙っていても解ってくれるはずだ、なんて幾ら耐え忍んでみても、世界はそんなに優しくない。だったらさっさとリスク管理した方がマシだろう、という辺りが個人的な意見であります。まぁそんな風に理屈で感情を説得できたら苦労しないんですけど。故にメンドクサイ問題でもあると。
しかし身も蓋もなく言えば、そもそもそれが正しかったのか間違っていたのかは別に問題じゃないんですよね。日本人自身の意向などはそこでは問題でなくて、ついでに言うと「相手がどう思うか」さえも問題ではなくて、結局はどこまでいってもこの構図を見ている第三者=国際世論=欧米がどう見ているか、という問題でしかない。
国際社会=欧米社会、という素晴らしきこの世界。そしてそのグローバルな彼らが「不十分だ」と言うならば、そう決まってしまうのです。
では一体誰がそんな彼らの『正義』を担保しているのか? ――それは彼ら自身によって。
戦争に負け、多数派工作も放棄した私たちは、少なくとも今はまだ、何も言う権利などはありはしないのです。


ただまぁだからといって、上記のように「日本のロジックの特異性」へ批判の矛先としてしまうと、他の場面で同じように『普遍的価値観』に限りなく近いグローバルな『国際世論』という武器を援用されてしまった時に困ってしまいそうなので、あまり良い手段ではないよなぁと余計なお世話なことを思って居しまいます。
日本の「脱原発」だったり、日本の「集団的自衛権」だったり、日本の「GDP比軍事費」だったり、日本の「平和憲法」だったり。まさにこれら日本の『特異なロジック』を(右側に)変えたい人たちだって同じように「日本を(国際社会の普遍的価値観に沿った)『普通の国』にしよう!」なんて言っていたりするわけで。
そして一方で、慰安婦問題だったり、死刑制度だったり、社会保障だったり、多文化主義だったり、移民受け入れだったりをして、「日本を(国際社会の普遍的価値観に沿った)『普通の国』にしよう!」なんて言っていたりする。
お互い自分に都合の良いところしか見ていない人たち。
こうなったらもう右も左も仲良く『普通の国』を目指せばいいんじゃないかな。なんかものすごいモノになっちゃいそうですけど。


さて置き、ちなみにそんなシュタインズゲートの選択――じゃなかった、ワールドオピニオンの選択を拒否し真っ向から勝負を挑んでいるのが(いわゆる訒小平さんの『平和的台頭』から抜け出した)現代中国さんちなんですよね。
見事な経済発展を成し遂げた彼らは、ついに積年の恨みでもある、そうした国際世論=普遍的価値観=欧米の人たちの常識は間違っていると言い出すようになった。それはお前らが一方的に決めた論理であり、それが唯一絶対の正義だなんてことあるわけがない、と。全面的に同意することはできませんが、しかしまったく一理も無いのかというとそうでもありませんよね。
かくして彼らはノーベル平和賞に対抗して『孔子平和賞』を作ってみたり、現代世界の海洋権益問題の根幹への挑戦でもある『大陸棚延長説』を言い出してみたり、主流であるはずの自由な資本主義ではなく『国家資本主義』という経済体制を頑なに守り、そして自由民主主義こそ普遍的価値観であるという思想には明確に「不是」と言い続けている。


現代の国際体制システムそのものへの挑戦。逆説的に、これ位やらないと現状の国際世論を根本からひっくり返すのは難しいのでしょう。
いやぁ中国さんちすごいですよね。と言いつつも私たちも80年以上前には、やっぱりこれとかなり似たようなことをやってもいたんですけど。世界を革命する力を求めた現状打破主義者たち。
今となっては右も左も「普通の国」を目指そうとしている私たち日本とはまるで覚悟が違う。


グローバルな常識に囚われる人と、グローバルな常識に囚われない人。さぁあなたはどっち!?