多文化社会では罪の重さが下方硬直する

これ以上失敗しない為に乗り越えなければならない壁



なんとなく優しくなりすぎて、どんどん壊れていく世界 | 文春オンライン
おもしろいお話。

 いやあまあ犯罪は許せないし、いろんな表現で傷つく人はいると思いますよ。文化の違いで不愉快なことを感じることもあるでしょう。分かる。それは分かる。でもなんか誰も傷つけないようにしようと思いすぎるあまり、あるいは、誰かが主張する狭い範囲の権利主張に配慮した結果、なーんか世の中が思い切り息の詰まる方向に行き過ぎてやしないですかねえ。

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まぁ私たちが掲げる多文化社会の弊害というやつだよね。
うちの日記でも何度か書いてきたネタではありますが、様々な人が居るということは、様々に違った社会規範があるということである。かくして私たちは曲がりなりにも「多文化」を掲げる以上それに一定(まさにその程度こそが問題の核心でもある)の配慮をせねばならない。
イヌも、ネコも、ウシも、ブタも、クジラも、ムシも、カミも、テンノーも、禁忌まみれで暮らしていかなければ私たち。
八百万に配慮せよ。わりと日本社会とは相性いいかもしれない。


一方で、多文化主義は一般にリベラルな人たちの掲げる理想ではありますが、それが進むと必然的に両者は矛盾することになるんですよね。様々な多文化の中には当然、旧来の『リベラル』な価値観とは相いれないモノも存在しているわけで。
まぁイスラムの女性の扱いとかその典型でしょう。彼らはそれを保護といい、別の彼らはそれを束縛という。
「普遍的」人権などという絶対的正義を掲げる故に、リベラルはいつか多文化主義と衝突する。そしてそれは住民間の摩擦という形で表出する。
ヨーロッパの多文化社会の最前線。


個人的にここで面白いのは、そこで何がタブーが決まるということは、同時にまたそのタブーを破ることへの『罪の重さ』も自然に決まるという点だと思うんですよね。
同じ禁忌を破る行為でも、そこには罪の重さは様々なパターンが当然あって然るべきでしょう。
しかしここでは、ある禁忌破りの罪の重さについて考えるとき、そのローカル社会の内部基準にとどまらない最も重い事例を以って相手へ圧力を掛けるのが自然となる。


グローバルで多文化な視点で、罪刑均衡すべきである。
そしてその均衡基準とはもちろんそのタブーを強く意識している人たちである。

  • 自由の制限は、リベラルたちの考える罪の重さで。
  • 神の冒涜は、信者たちの考える罪の重さで。
  • 反ユダヤ主義ユダヤ人たちが考える罪の重さで。
  • 肉食はヴィーガンたちが考える罪の重さで。
  • 動物虐待はPETAやアニマルライツが考える罪の重さで。


日本社会でも、しばしば、殺人から軽犯罪までほとんど全ての犯罪行為に対する『厳罰化』が言われるようになりましたけど、こうした社会のトレンドを見ればそれも無理はないかなあと思うんですよね。
卵か鶏かどちらが先かはともかくとして。
多くの私たちはそれが重要だと考える故に、(自分が罪だと考える行為への)より重い刑罰を望んでいる。
ということは、多文化な社会の内部に当然様々な社会規範があるとするならば、その中から最も軽いソレではなく最も重いソレを適用すべきだと考えるようになる。グローバルで、多文化な社会だからこそ、そのタブー破りを咎める声は最も罪の重い事例を以ってすることでより強い圧力となる。


旧来は元々世界的に宣伝活動できるようなグローバルな集団(ユダヤとか)にしかできなかった最大限の圧力が、誰にでも可能となったすばらしき現代世界。
かくして現代の多文化社会においてはその罪の重さは下方硬直している。
だからこそその様々なタブーの重さは概ね等価値となった。多文化主義ばんざい。

 これって世の中が進歩して、良い方向に確実に向かっていっている、ということなんでしょうか。それが「あれ、なんか違わない?」と思うことも批判されてしまうのだとすると、なんだか物凄く狭量な世の中で、誰かの価値観を押し付けられたまま、くだらない同調圧力と忖度ばかりの世の中になるんじゃないかと物凄く心配になるんですが。

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よかった、これで自分の信じる価値観・タブーを破られて苦しむ人たちはもう誰もいないんだ。


そして、その無数のタブーがそれぞれ両立できないとなったとき、せんそうがはじまる。
――いやまあ絶対的普遍的正義の名の下に世界(観)統一する選択肢もあるっちゃありますけど。
アメリカはもちろん、イスラムな人たちは未だにそう考えているだろうし、わりと現代ヨーロッパもそっちの方へ進みつつあるよね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?