『説明責任』という機能をまるで理解していない『説明責任』の要求者たち

その筆頭に立つはずの人たちのご覧の有様っぷりについて。一体なんでこんなことに。


安倍首相、声を荒らげ「攻撃どういうことか」 : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
ということで、少なくとも今回の人質事件に関しては、日本政府は基本的にはかなり真っ当な――身も蓋もなく言えばそもそも初めから実効的な選択肢なんてほぼ無かった――対応をしたと言ってもよろしいのではないでしょうか。声を荒らげる位しかできない。だけど3分の1も伝わらない。まぁ確かにその点は批判されるべき点なのでしょう。
それでも何も出来ないなら出来ないなりに、きちんと「余計なこと」をしなかった日本政府。結果的に何もしなかったから誉められる、という何かものすごく低レベルなお話になっていますけども、まぁ前政権の人たちがハードル下げまくってくれたおかげなのでしょう。
セイケンコウタイのもたらしたメリットの一つ、「出来ないことは出来ないときちんと言える」こと。新入社員か!


【アルジェリア人質事件】死亡者氏名 「家族に配慮」公表せず - MSN産経ニュース
【アルジェリア人質事件】神奈川の報道17社、日揮に死亡者名公表など申し入れ - MSN産経ニュース
時事ドットコム:氏名公表「応じない」=日揮
――で、ならば代わりと言わんばかりに、一方で墓穴を掘りまくっているのが報道関係者の皆様であります。報道の使命の為に犠牲者の実名が必要なんですって。へぇーほうどうのしめいってすごいんだなぁ。

 アルジェリア人質事件で死亡が確認された日本人について、政府は23日になっても氏名や年齢を公表せずにいる。被害にあったプラント建設大手「日揮」が遺族への配慮を理由に公表を控えるよう求めているためという。だが、すでにメディアによる実名報道が先行し、一部遺族が取材に応じるなど非公表は有名無実となりつつある。説明責任の観点から情報隠(いん)蔽(ぺい)の批判にさらされかねない。

【アルジェリア人質事件】死亡者氏名 「家族に配慮」公表せず - MSN産経ニュース

説明責任だそうですよ。うん、まぁ、確かに素晴らしい理念ですよね。
以前の日記でも書きましたけど、なぜ権力に対しての『説明責任』が必要で、そしてなぜ権力の監視に有効なのかというと、彼ら権力者は正当性や必要性といった建前の下に、しばしばルール=法を潜り抜けようとするからであります。

ちなみに、こうしたある種の『権力』の暴走を抑制するのには懲罰的なルールを決めるのはあまり有効な手段ではないんですよね。だってそのルール自体を出し抜かれてしまってはそれでおしまいだから。じゃあ何をすればいいのか?
――というとやっぱりそこで登場するのが素晴らしき民主主義政治的な手法であるわけです。
つまり、何故こんなことになったのか「当事者たる彼らに説明を要求する」ことこそが。それによって私たちは彼らの正当性を直接に判断する事ができる。現代民主主義政治の王道ではありますよね。

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彼らは常に設定された硬直的なルールをうまく出し抜くだけの知恵とパワーを持っている。究極的にルールによる統制は被害の後追いとなる以上元々無理な話なのです。だからこそ、そんな権力者たちを私たちがより柔軟に制御することができる手段として、そもそも『説明責任』という概念は現代の民主主義政治において特に必要とされているわけです。
私たちが直接にその是非を判断できるためにこそ、「彼ら自身の口からそれを説明させる」という責任を負わせている。


で、今回日本政府は文字通り「説明責任」として(その彼らマスコミの言葉に従えば)「隠蔽」の理由を次のように語っているわけですよね。

菅義偉官房長官は、23日夜の記者会見で、新たに2人の死亡を確認したことを発表したが、氏名の公表については「家族の皆さんが動揺して、『そこだけは勘弁してほしい』としている。今の時点で発表するつもりはない」と述べた。

【アルジェリア人質事件】死亡者氏名 「家族に配慮」公表せず - MSN産経ニュース

個人的にはこれで十分その「隠蔽」に対する説明責任として十分だと思いますが、しかしもちろんこれで納得しない人も居るでしょう。まぁそれはそれで別に良いんですよ。故に「隠蔽」には納得できないと。
――しかし、これをもってして「説明責任の観点から情報隠(いん)蔽(ぺい)の批判」というのはものすごく見当違いのことを言っているよなぁと。『説明責任』は「何故そういう結論に至ったのか」という内部の意思決定プロセスを説明させることであって、「何もかも情報開示しろ」ということでは決してないはずなのに。その意味ではこれでもう十分にその責任を果たしていますよね。「遺族がそう望んだから」これほど単純な意思決定もないでしょう。
本来であれば最も先頭に立って――私たち一般市民の文字通り代弁者として――『説明責任』を要求しなければいけない彼らが、なぜかその機能を全く理解していない現状。


まぁ今回の顛末のオチとしては、マスコミの皆さんの「実名公開要求」に対して、おそらく大多数の人が抱いているであろう何故そんな要求をしようと思ったのかについての『説明責任』を果たしてもらえばいいんじゃないかな。そしてその上で、私たちはまさに民主主義政治を担う一員として、その意思決定プロセスの是非について議論すればいいのです。だってそれこそが本来の『説明責任』の機能なのだから。
「被害者遺族への配慮の為」という説明と、「被害者の生の声を伝えることが重大な責務」という説明。
両者の説明を聞いたうえで、一体どちらに理があるのか?


みなさんはいかがお考えでしょうか?