「好きの反対は憎しみではなく無関心」なのでうんぬんかんぬん

その辺の構図がとてもよく解る事例。


【閲覧注意】金持ちのアメリカ人ら、フランスの島で猫や犬を餌にサメを釣り問題に : ラジック
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1754443.html
閲覧注意。
ということで何故か急に盛り上がり、挙句「釣り」だとか「昔のネタを何で今更」だとか「他の動物を生餌にしているからどっちもどっち」だとか言われておりますお話。まぁなんというか、クジラのそれによる『欧米』という要素と、そしてその画像と、まぁ盛り上がりやすいネタではあるかなぁと。現代日本における炎上ワードのひとつ。
もちろんこうしたことへ反発するのは、人間としてはまったく不思議でない感情の作用であります。建前や理想論としては「一個の生命」として同等であるけれども、しかし虫や微生物や魚を生餌にすることは許容できても、より親しい動物では感情移入してしまって反発してしまう。その意味で私たちが犬や猫への虐待行為により強い反発をもってしまうのは当然であります。
じゃあ欧米の人にとってクジラやイルカも同じくそういう存在なのかというと、まぁ第三者には彼らの心理はよく解りませんが、少なくとも100年ほど前まで世界中でクジラを(枯れるほどに)狩りまくってた彼らにとってはそれなりに身近な存在であるのだろうなぁと。


ともあれ、だからといって、こうした行為を非難し大騒ぎすることが現実的に犬や猫のためになるのかというと、やっぱりそうでもないんですよね。だってこうして解りやすい形で弄ばれる犬や猫なんて、どっちみち大した数にはならないわけで。まさに「遊び」としてやっている以上、逆説的に彼らはその範囲を逸脱することがない。
つまり私たちがこうしたセンセーショナルな残虐行為に腹を立てる一方で、しかし一方では私たち日本社会では(年々減少傾向にあるとはいえ)年間数十万というオーダーで犬猫を殺処分している。そんな行為を見て見ぬフリをする一方で、しかしこうして犬や猫の虐待行為には大騒ぎする。なんだかとても生暖かい気持ちになってしまいますよね。


といってもまぁこれは私たち日本人だけの悪癖ではないので、殊更に今回の件で騒いでいる人たちを論えばいい話というわけではやっぱりありません。こんな悲喜劇は世界中のどこにだってあるのです。

「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」

あのアイヒマンさんのユダヤ人の絶滅計画の実行はそのひとつの極北であります。好きや嫌いといった個人の感情なんて結局は大きな役割を果たさないのです。いつだって血も涙もない冷酷な計算と合理性による効率化の果てにその地獄はある。敢えて感情を排するからこそ、よりマクロな地平に到達できるとも言えるのです。そしてその行為を暗黙的に了承してしまうことこそが。
憎悪や嫌悪感といった感情ではなく、無関心こそが、その致命的な破滅をもたらす。


こうした(人間味あふれる)残虐な画像に憤る一方で、しかしあまりにも無機質で機械的な悲劇は目に映りくく、故に無関心のまま見逃してしまう私たち。
いやぁにんげんってすばらしいなぁ。