「後を追う」人たちの苦しみ

200年近くかけて辿り着く場所。その成功だけでなく、副作用の重み。


ロシア正教会のキリル総主教、「フェミニズムは危険」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
どこにでもあるお話。

【4月11日 AFP】ロシア正教会(Russian Orthodox Church)のキリル(Kirill)総主教は9日、女性が家事や子育てを超えた役割を担うことを促す「プロパガンダ(宣伝活動)」を公然と批判し、フェミニズムの危険性について警告した。発言の内容は10日、ロシア正教会のウェブサイトに掲載された。

 キリル総主教は「フェミニズムと呼ばれる現象は非常に危険だと思う」と述べ、「フェミニスト団体は、女性は結婚や家庭といった枠組みの外で自己実現すべきという見せ掛けの自由をうたっている」と非難した。

ロシア正教会のキリル総主教、「フェミニズムは危険」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

まぁ現代ではしばしば『イスラム』のそれが殊更に――ついでに私たち日本でも自虐的に――語られたりするわけですけども、それはキリスト教な人たちだって構図としてはほとんど変わらないわけですよね。それどころか世界中で見られるお話であります。
真の『女性の役割』について。
まぁ個人的にはバカげたお話だなぁと思うところではあるんですが、しかしそうした価値観が根強いこともまた現実としてあるわけで。やはり少しずつ進んでいくしかないのだろうなぁと。
それこそあの「画期的過ぎた」J・S・ミル先生の『女性の解放』は1869年の当時でさえ世間からはまったく相手にされず、結局欧米の男女平等の普通選挙が一般化したのは20世紀過ぎてから、だったわけだし。そして制度面だけでなく人びとの意識までも決定的に変えたのが、20世紀後半のフェミニズム運動からようやく現在と近い場所にまで辿りついたわけだし。200年以上掛けてようやく辿りついた場所。遅々とした歩み。


――ならば、「後に続く」人たちにとっては先例がある分より簡単に進むだろう、というのはまた別の話なのでしょう。
むしろ先例があるからこそ、別の苦しみがある。先駆者たちはただひたすら前を見ていればそれでよかった。しかし後を追う人たちにとっては、その『成果』だけでなく、『副作用』もハッキリ見えてしまっている。


かくして先駆者たちの時代の積み重ねの過程にあった、一部の「行き過ぎた」「過激な」フェミニズム運動までも一緒くたに矛先にあげることで、こうした反対のポジションを取ることに利用されていったりもするのだろうなぁと。
民主主義を『手段』とする人たち - maukitiの日記
一昨日書いた日記とも関連するんですが、

この辺は、アマルティア・セン先生が仰っていた『科学主義』が欧米的価値観と見なされるようになっているのと同じ構図――実際にはそうではないのにもかかわらず――『世俗主義』が欧米的価値観であるという風に結びついてしまっていることが、現状の一助ともなっているのだろうなぁと。「女性の権利」擁護など、それは「普遍的」でも「中立的」とされるようなモノではなく、他者が勝手に押し付けているモノに過ぎないのだと。

民主主義を『手段』とする人たち - maukitiの日記

そしてその反発心は、本来は別々の存在であるはずが、一緒くたにして利用されてしまう。やっぱりロシアでも西側的価値観として『色』がついたとして見なされるフェミニズムの運動は、反対者たちから巧妙に利用されていたりするのでしょう。
おそらくより強い形で、イスラムな人びとへも。
いやぁ前途は多難でありますよね。見習えばいいではないかなんて決して簡単に言えない。先駆者たちは先駆者たちで当然苦労もあった――実際200年近く掛けたわけだし――のでしょうけど、しかしこうして後に続く人たちもまた、その先駆者たち自身が残してしまった『色』と、そして見えすぎる『教訓』に苦しめられることになる。


「『女性の権利』は素晴らしい、だが、痛みもあるではないか」なんて。
まぁ確かに言っていることはそこまで間違ってはいませんよね。