「豊かさ」についてのガラスの天井はぶっ壊れました

無知の知


「お金はあればあるほど幸せ」米研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
これまでもちょくちょく書いてきた興味深いお話。
人間は一体どこまで「お金があれば幸せ」なのか?

【4月30日 AFP】幸せはお金で買え、しかもお金が多いほど多くの幸せが手に入る──米ミシガン大学(University of Michigan)の経済学者による研究が、29日発行のアメリカ経済学会(American Economic Association)の専門誌「アメリカン・エコノミック・レビュー(American Economic Review)」5月号「Papers and Proceedings」に発表された。

 財産と満たされた生活の関連性は驚くべきことではないが今回、米ミシガン大のベッツィー・スティーブンソン(Betsey Stevenson)氏とジャスティン・ウォルファーズ(Justin Wolfers)氏による研究の注目点は、収入が基本ニーズを満たすレベルを一定超えるとその効果は薄れていくとした従来説を否定していることだ。2人は論文の中で、所得と幸福感の相関関係に「飽和点」を示す証拠はないとし、「イースタリンの逆説」や類似の学説は誤りだと主張している。

「お金はあればあるほど幸せ」米研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

なんとなく最近本を読んだり日記を書いてて思うのは、個人的にはどちらも正しいのではないのかなぁと。
つまり、かつては所得と幸福の相関関係に『飽和点』は存在していたものの、しかし現在そんな豊かさの天井は最早無くなっている。
昔の社会では「豊かさ」について一般の人びとの知りうる限りでの限界はあったけれども、しかし情報溢れる現代社会では私たちは限りなくセレブな生活があることを情報として知っているわけで。次元が違うレベルでの豪華な生活。そりゃ「もっと良い生活があるに違いない」と人びとが思うのは不思議ではありませんよね。


ついでに、『飽和点』がなくなったもう一つ大きな要因だと思うのは、良くも悪くも現代社会の特徴でもある個人主義の普及でもあるんじゃないかと思います。それこそかつての社会ではある程度まで「豊か」になった人たちは、国家や地域社会に尽くすことが半ば義務とされてきたわけで。まさに「善き市民」として。
やはりそれは善悪両面あったのでしょうけども、しかしこれまではその豪華さを誇るより、ある程度まで稼いだ人はそうやって社会に還元することを期待されてきた。
もちろん現代でもそうした金持ちはたくさんいらっしゃるでしょう。あのビルゲイツさんとか。しかし、そのハードルは限りなく高まってもいる。上を見たらキリがない、ことを知っている。「(私たちは同じ人間であるはずなのに)総資産が数兆というレベルの人間が存在しているのに、年収1000万で喜べというのか?」なんて。
この格差が極大化していく現代の社会において、その飽和点は最早一般市民から見て遥か彼方に行ってしまって存在しないも同然になっている。


ここで誤解してはいけないのは、だからといって現代の私たちが殊更に「強欲」になったというわけでもないのだと思います。
つまるところ、私たちはこれまで『情報(身分)の壁』や『国家や地域社会からの圧力』によって存在すると考えてきた天井が、実はそんなもの存在していないことに気付いたのです。その更に先に幸福があることを知ってしまった。そこにあると信じられてきた所得と幸福感の相関関係の飽和点は、実はガラスの天井でしかなかったのだと。
無知の無知から、無知の知へ。
更なる金持ちへの道の先にもっと可能性があることを知ってしまった私たち。
しかしながらそんな可能性の先は、実はほとんど人にとって届くはずもない遥かなる高みであります。私たちの大多数はそんな豪華なセレブたちの世界をただただ見せつけられるだけ。
更なる幸福があることを知って喜べば良いのか、それとも知らないままで居たほうが幸せだったのか、いやぁ大変に哲学的な難問ですよね。私たちは「無知の知」を自覚したことで幸福になることができるのか?


みなさんはいかがお考えでしょうか?