経験に裏打ちされた「合理的な無関心」の時代へ  

「(どうせ何も変わらないだろうから)選挙に行かない」から「(実際何も変わらなかったから)選挙に行かない」へ。それはまぁ確かに合理的な振る舞いと言えないこともないですよね。



参院選の「基本的な構図」とは何か? | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
ということで冷泉先生の参院選の展開について。まぁ概ね納得できるお話ではあるかなぁと。

 消極的支持というのはどのような形を取るのかというと、低投票率になると思います。結果的に都議選と同様にテクニカルな理由で組織政党が勝利し、無党派票は棄権かあるいは分散してしまうでしょう。無党派票は実はそうした投票行動もしくは棄権行動というのが、自民党を勝たせることは分かっていると思います。その意味からも「自民党への消極的支持」になるのだと思います。

参院選の「基本的な構図」とは何か? | 冷泉彰彦 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

まぁ実際この辺りなのでしょうね。最早私たちは、政治の変革を期待しなくなってしまった。おそらく自民党が勝つことが解っていても尚、しかし無関心を決め込んでいる。それを「消極的支持」というのはまさにその通りでしょう。


冷泉先生が指摘しているように、ある程度まで、現在の自民党は「ホンネとタテマエ」を両立しているように見える。ならばもうそれでいいではないか、と。それは自民党への信頼であると同時に、やはりある種の諦念でもあります。民主党政権では、ひたすら混乱しただけで、ほとんど何も変わらなかったからこその自民党への支持。よく指摘されるように、これが積極的な自民党支持ではないというのはやはり間違いないでしょう。
かくして国民たちは――正確には無党派層たちは「だったらもうどうでもいいや」とまでは言いませんが結果として、自民党に託した――こちらもより正確に言えば、事実上自民党公明党に放り投げている。


まぁ身も蓋もなくいうとこの構図は、政治改革に飽きた、という意味でもあるのでしょう。ついに、あるいはようやく、少なくとも民主党の言う所の「日本政治の根本的改革」なんて幻想だってことに気づいてしまった。もう風は止んでしまった。私たち日本が誇る飽きっぽさがここでも発揮されることになる。
かつて私たち日本の有権者が持っていた危機感は、もういい加減お腹いっぱいになってしまった。
個人的には低投票率の説明としてはこちらの方があるのではないかと思います。私たちは大きな政治問題について考えることにもう飽きてしまった。経済にしろ、財政にしろ、原発にしろ、外交にしろ、いつまで経っても結論が出せない。もうどうでもいいというよりは、むしろいい加減飽き飽きして「後はよしなに」という次元で放り投げている。なんて素晴らしき国民主権


あれだけ熱狂し頑張ってみたけれど何も変わらなかった。結局疲れただけで何も変わらなかった。だったら、もう無駄に疲れることはやめて流れに任せよう。
つまり、単純に民主党が見捨てられたと言うよりは、政治の変革そのものが見捨てられているのです。民主党政権は単純に自らの党勢だけでなく、国民の政治改革への期待そのものにトドメを刺した。まぁ別にこれは民主党による初めての特別な失敗というわけではなくて、あの1993年の時も同じ構図だったので、また繰り返してしまったのか、という感じでもあるんですけど。



かくして私たちは再び「合理的な無関心」という姿勢に辿り着いている。どうせ変わらないのなら、だったら初めから無関心であった方が余計な労力を払わずにすむ、と。それは単純に怠惰とかそういうレベルですらなく、むしろ実際の経験から帰結した教訓として。
もちろんこうした構図が健全な状況かというと、そんなことまったくないわけで。まさに現在起きているように、こうした状況は容易に政治への無関心化=低投票率を生み出すし、そしてこの無力感こそが次代のポピュリズムを生むことになる。私たちは無力感を覚えるからこそ投票にいかないし、同時に無力感を覚えるからこそ「とりあえず私に任せろ!」というポピュリズムなことを言う候補者に惹かれてしまうのです。今抱える無力感をどうにかしてくれるのではないかと夢を見てしまうから。
無力感の大きさと、期待の大きさは比例する。故に低投票率ポピュリズムはいつだって紙一重の所にあるのです。


いつかまた「風」が吹くのは間違いない。忘れっぽい私たちが今回の顛末を忘れてしまったとき、あるいは再び危機感を思い出したときに。
果たして、その時、いったい誰が出てくるのでしょうね?