心から悔恨の念を示すために必要な四つの『R』

ただしい謝罪のしかた。認知し、自責し、抑制し、贖罪する。



イスラエルとパレスチナ、和平直接交渉が約3年ぶりに再開 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
最近なぜか活発になってきたアメリカさんちの中東和平へプロセスへの積極的関与ではありますが、エジプトにシリアにとものすごい忙しくてそれどころじゃないだろうに、なぜ現実逃避ばりにこんなことをやっているんでしょうね。 
と、疑問に思ったので色々ニュースや評論を見ていたんですが「オバマ大統領というよりはケリー氏個人の執念?」と微妙な語られ方をしていてやっぱりよく解りませんでした。そういえば前民主党政権だったクリントンさん時代にも、政権後半になってから贖罪とばかりに熱心に中東和平やコソボへの関与をがんばっていたよなぁと考えると、その辺りと色々関連することがあるのかもしれないと思って最近はそのあたりの本などを読み返していたりしていました。
――ここまで前振り。


手痛いミスをしたとき、どのように謝ると効果的なのか - GIGAZINE
で、まったくそれとは関係ないお話。正しい謝罪の仕方について。

ウソは時に人を傷つけます。ウソをついた場合、一番良いのは最初に誠実な謝罪をすることです。人類学者ゲーリー・チャップマンの著書「five languages of apology(謝罪に使われる五つのフレーズ)」は、よくある謝り方を五つ挙げています。それは、
1.遺憾の意を表すること-「ごめんなさい」と言う
2.責任を受け止める-「私が間違っていました」と認める
3.賠償をする-「きちんとやります」
4.心から悔いる-「もう二度とやりません」
5.許しを請う-「ゆるしてもらえませんか?」
というものです。
しかし、これらの謝り方は効果的な謝罪法ではありません。それは、すべて「自分の視点からの謝罪」であり、「相手の視点に立った謝罪」ではないからです。
最近、ハイジ・グラント・ハルバーソンが出版した「The Most Effective Ways to Make It Right When You Screw Up(大失態を起こしたときに採るべき効果的な方法)」がこのことについて的確にまとめています。
問題は「ほとんどの人が自分のために謝っていること」です。自分の視点や考えや感情で謝っているのです。「そんなつもりじゃなかった......」「がんばったんだ......」「よく知らなかったんだ......」「これにはワケがあるんだ......」これらはみな、自分の視点からの謝罪です。効果的な謝罪をしたければ、「相手の視点に立った謝罪」をするべきなのです。それには「あなたによってどんな悲劇が引き起こされたか」「相手はどんな気分だろうか」「解決のために相手はあなたに何を求めているか」を考えることです。

手痛いミスをしたとき、どのように謝ると効果的なのか - GIGAZINE

まぁ結局のところ、贖罪と悔恨することは別なんですよね。相手の気持ちを慮ることと、自分の気持ちの説明、どちらか一方が欠けてもいいわけではなくて、そのどちらも過不足なく行うことが『正しい謝り方』と言えるのでしょう。
そうは言ってもなかなか難しいものではあります。人間は理性ではそうした方がいいと解っていても、それでも、精神的に追いつめられてしまうと感情のままに自己正当化を図ってしまう。自分は悪くないのだ。相手が、環境が、社会が悪いのだ。個人的にも身に覚えがあり過ぎてつらい。


正しい悔恨の仕方について。
まず基本として覚えておかなければいけないのは、そんな謝罪を聞かされ許しを乞われた側である周囲の人間にとって、実際に正義や真実や法的にどうであったのか、というのは実はあまり重要ではないんですよね。むしろそこで重要なのはどれだけ犯された罪を正当化できるか否かではなくて、どれだけ当人が罪を真摯に悔いているか、という姿勢の方がずっと重視されるのであります。実際の裁判でもそうした被告が「反省しているか」は判決を決める際の重要な要素でありますけれども、フォーマルな状況でない日常的な謝罪の場面ではそうした要素がより重視されるのであります。
多くの場合において私たちは、相手を一生責め続けるよりも、できれば相手を許す方が楽であることを知っている。まぁもちろん個人的な被害の大きさや、復讐心、その償いによる利益の多寡、あるいは単純に利害関係者にないからこそ生まれる野次馬的な騒ぎたいだけの愉快犯などで、敢えてその謝罪を受け入れない人たちが少なくないことも事実であります。
しかしそうやって謝罪を受け入れず、相手を許さないままずっと責め続けるということはそれこそ一生無駄にエネルギーを使わなければいけないという意味でもあるし、そのような不毛な連環の理を作ることは回り回っていつか自分へも降りかかってしまうことになる。ごくごく普通に社会生活を営む人間であれば誰だって解っているはずなのです。だから私たちはその「過ち」に近い当事者であればあるほど、ある程度まで納得できさえすれば、出来るだけ許す方が楽であると知っている。
一方で何故そんな私たちが「不誠実な謝罪」を殊更に憎むのかというと、そうやって元々許そうという側に天秤が傾いているからこそ、なのでしょう。不誠実な謝罪を目にした時に感じる怒りというのは、間接的にそんな自身の気持ちが裏切られた、という風に考えてしまうからなのだと思います。
真摯に謝って(ついでに贖罪さえしてくれれば)くれさえすれば自分は寛大にも許そうと思っていたのに、アイツはまったく反省した様子を見せない、なんて奴だ。まるで裏切られたように感じてしまう。だからこそ、私たちはそんな、謝罪の色が見えない謝罪を、何もしないよりもずっと憎む。いっそそれなら何もしない方がマシだった、というのは実際その通りなのでしょう。


ということで、正しく悔恨している様子を見せるには、まぁやっぱりそれなりに正解となる手順というものがあるわけで。つまり、どういう態度ならば、相手の人々が潜在的に持っている「許そうという気持ち」を違和感なく気持ちよく喚起することができるか。
結局その点こそが重要であり、またそれはかなりの面で技術によって解決できる問題なのです。それこそが上記リンク先で言及されているような贖罪を視野に入れた『効果的な謝り方』というものなのでしょう。



さて置き、前振り部分と合わせて個人的にこうしたお話で思い出したのが、あの『不適切なおしゃぶりサービス』で大騒動を招いたクリントンさんへのアドバイスに関するお話であります。当時共和党内で数少ないクリントンさんへの同情を示していたオリン・ハッチ上院議員*1(また彼はモルモン教の司教でもあった)のは騒動に追われる大統領へ、次のような宗教的な要素を盛り込んだ助言したそうです。

本当に悔恨するには四つ「R」が必要なのです。

一つ目は、自分がしでかしたことは間違っていると心から認めなければならない。(Recognize)
二つ目は、そのことに対し自責の念をもち、自分のやったことを後悔しなければならない。(Remose)
三つ目は、二度とそれを繰り返さないように心がけること、それこそが真の悔恨なのだから。(Refrain)
四つ目は、罪の償いをしなければならない。(Restitution)*2

上記リンク先にある本文中で指摘されているのとかなり似ていますけども、相手の気持ちを考慮するという意味ではかなり真っ当なアドバイスではないかなぁと。謝罪し相手に許しをこう際に重要なのは単に「すまなかった」と言えば済むお話ではないのです。重要なのは、相手に自分がどれだけ悔いているのかを、出来るだけ誠実な対応だと見える形で、誠心誠意表すことなのです。それはやはり、技術的な手法で解決できる問題ではあるのでしょう。


上記クリントンさんもその騒動の初期の釈明で失敗したように、よく勘違いされがちなのは例えば法的に争う裁判で弁護人を雇うのは正しくても、広く一般に謝罪する際にはそんな法的な正しさを朗々と述べることは正解ではないということであります。
それは確かに法的に争う場面では役に立ったとしても、だからといって多数の公衆に「本当に悔恨している」と見られるようとする際には全く寄与しない、どころかむしろマイナスでさえあります。まぁその辺のことをさっぱり理解せずに現在でも企業の謝罪会見などで「違法ではありませんから!」なんて強く主張しては、見事に逆効果になってしまうというのが、しばしば見られる日本的な風景であったりするんですけど。あけすけな心理学的なパワープレイをしろとまでは言いませんけど、弁護士だけではなくきちんとしたコンサルタントも雇えばいいのに、と愉快な謝罪会見を見る度にしみじみ思ってしまいます。まぁそれでも最近ではきちんと準備された謝罪も増えてきたような気がするので、それなりに広まってはきているのでしょう。




正しい謝罪の仕方について。
身も蓋もなく言ってしまえば、実際に自身の内心がどうであるかはこの際問題ではないのです。如何に相手にそう思わせるか、が重要である。まぁ精神的に追いつめられている人が常にそんな風に振る舞えるのかというと、やっぱりそういうわけでもないんですけど。だって人間だもの。