リアリズムの限界

これも いきもののサガ か。


リアリズムは「保守」である : 地政学を英国で学んだ
先日のキッシンジャー先生の小話と、上記を見ていて考えたお話。

リアリズムでは、人間というのは昔からあまり進化しておらず、いざとなればホッブスが想定している「万人の万人にたいする戦い」が現れるという考えが土台にあります。
つまり彼らは「最悪の事態はいつか起こるし、悪は人間の心の中に潜んでいる」という考えを否定しておらず、いわば危機管理的な考え方を常に持つことを忘れるなとアドバイスするわけです。
そういう意味では、彼らは人間(の社会)が進化して、(戦争のような)最悪な事態や心の中の悪は克服できるとは考えておらず、とりあえず世界をより良い方向に無理やり進めていこうという考えもそれほど持ちません。
これはようするに、彼らはその考え方において「保守的」であることになります。

リアリズムは「保守」である : 地政学を英国で学んだ

まぁこの辺りのリアリズムが本質的に保守的である故に、その保守性が持つ限界からも逃れられない理由でもあるんですよね。つまり、人間はこれまでも――そしてこれからもずっと変わらないのだから、何か前例のない革新的な理想を打ち立てようとするのはあまり感心しないし、だったらこれまでがそうであったように(未来永劫変わらない人間の本質に合わせた)よりベターな最適解=力の均衡を忘れないようにするべきだ、と。
もっとぶっちゃけてしまえば「これまでも人間は幾度も戦争を繰り返してきたのだから、これから先もそうではない理由など何もないだろう」なんて。


もちろんこの辺りのお話については、やっぱり色々と批判や反論があったりするわけですよね。

  • 「まったく人間は進歩していないのか?」
  • 「人間の歴史は前に進んでいないのか?」

そしてリアリズムの人たちは、その問いに「NO」と答えるのです。彼らは人間を基本的に信用せず、故に徹頭徹尾どうすればその時に最悪の事態に備えることが出来るか、を論じる。
――ただまぁそれはよく言われるように、自己成就予言=自らの手で将来そうなるように振る舞っているに過ぎない、という見方もそこまで間違っているわけではありませんよね。戦争を避けるために戦争の準備をせよ、なんて。そんな風に振る舞うからこそ、過去にあった人間の業から逃れられない――いや、そもそも逃れようとさえしていないではないか、と進歩的な人々は批判するのです。彼らはそもそも人間に対して保守的である故に、過去から進むことが出来ない。それを限界と呼ぶのか、あるいは教訓と呼ぶのかはやっぱり議論の分かれるところではあるでしょうけど。



さて置き、今や21世紀、もちろん海の向こうでは火種は絶えないけれども、しかし少なくとも先進国に生きる私たちにとっては完璧に文明的な生活を送っており、故に『戦争』という概念は現実には縁遠いモノであるという風に考えている人が大多数でありましょう。ところがここで意地悪なリアリズムの人たちは薄く笑いながら言うのです、「20世紀初頭の列強先進国に住んでいた人々もまったく同じように考えていたはずだ」と。ノーマン・エンジェルはかく語れり。
もしかしたら100年後の私たちも、現在21世紀初頭の世界を振り返って「よくこれで世界は平和になったなんて言えたものだな(笑)」という風に――まさに21世紀初頭に生きる私たちがあの20世紀初頭の第一次世界大戦前夜を見ているように――笑っているかもしれない。
まぁ個人的には人間も歴史もそれなりに進歩しているのではないかなぁと思うところではありますが、しかしだからといって、ここが『戦争克服に至る道』のどの位置にいるのか――中腹なのか頂上直前なのかあるいはまだ一合目でしかないのか――はまったく解らないし、そもそもそんな積み重ねてきた進歩が後戻り・ご破算・元の木阿弥に絶対にならないのかというと……、正直そこまで断言はできないよなぁと。いつも通りどっちつかずの中途半端なポジションであります。



みなさんはいかがお考えでしょうか?