「知らなかった」「気づいた時にはもう手遅れだった」という言い訳が通用しない時代が突きつけるもの

地獄とは神の不在なり。


にほんのへいわしゅぎはすばらしいなぁ - maukitiの日記
昨日書いた日記に関連して。というか元々一つだった日記を分離してこちらに。そこで日本の(一国)平和主義について適当に書きましたけども、しかし他の先進国の国々も最近のシリアへの対応を見るとまぁあまり違いはないよね、というお話。
リアリズムの限界 - maukitiの日記
それこそ「リアリズムの限界」よりも先に、国際関係においては逆側の理想主義やリベラリズムの方にこそ現代世界ではその『限界』が露呈しつつあるんじゃないかと。それが特に明らかになったのが現在の手の打ちようのないまま放置されるシリア内戦なんじゃないかと思うんですよね。



新たに広まった現代技術が――もちろんそれが完全に主要因ではないにしろ――用いられたことで「ソーシャル革命」と謳われたアラブの春は、まぁただの部外者で観客にすぎない私たちにも大きな衝撃を与えたわけです。
そして更にそれにとどまらず、その一連の反独裁者運動が行き着いたシリア内戦では技術革新がもたらす新たな状況を私たち観客にも提供することになっているわけです。つまり、流血が始まった当初から言われ続けてきたシリア内戦の『革新性』の一つとして、動画撮影に関しての情報機器の決定的な進歩が。
かつての湾岸戦争の際などでも戦場ジャーナリストの皆さんが現場に飛び込み、かなりリアルな映像を届けたことで大きな話題となりましたけども、ところがシリア内戦ではそれが更に進歩した結果、限りなく素人である市民や兵士たちの手でもそれが実現しているわけですよね。まさにyoutubeなどの動画サイトを見れば、それはもう見事な戦場のグロ動画で満ち溢れている。まぁもちろんそこでも熾烈な情報戦が繰り広げられているので全部を全部鵜呑みにすることなんてできませんが、しかし誰でも――遠く離れた私たち日本人でさえも、そこに戦争が、地獄が、虐殺があることをせいぜい数日のタイムラグで(知ろうと思えば)知ることができる。
これまでも徐々に進みつつあった戦場の動画配信という構造が、今回のシリア内線では完全に一般化している。結果として私たちは、期せずしてその流血に至る事態を、これまでにないレベルで目の当たりにすることになっている。


じゃあ、そんな情報を得ることで彼らを救うインセンティブが刺激されたのかというと、全然そんなことなかった。ぶっちゃけこれまでと何も変わらなかった。これまで通り、日々悪化していったシリアの惨状に、ひたすら手をこまねいていただけ。普段はあれだけ平和や非暴力を謳っていながら、しかしシリア内戦を止めることは全くできなかったし、あるいはその為の何か現実的なアプローチは政治的にまったく実を結ばなかった。
私たちはその事実を知った上で、失敗した失敗した失敗した失敗した。
http://blogos.com/article/67038/

 日本には美しい森林もある。自分の国は自分で守るという考え方もあるでしょうが、平和憲法を持ち、森と水がきれいな国をね、みんな侵せますか。そこへ侵略する国があったら、世界の非難を受ける時代でしょ。現代って、一国の暴走に世論がブレーキをかける時代なんです。

http://blogos.com/article/67038/

そう、確かにブレーキは掛かっている。欧米各国が口を揃えて非難する。でも、数日前のエジプトがそうだったように、国際世論がブレーキを掛けようとすることと、現実それが止まるかどうかというのはまったくの別問題だって事が証明されてしまってもいるわけで。現実に明らかにやり過ぎていることがこうして白日の下に晒されている現在のシリアですら、そんなブレーキが機能しないまま10万人が死に、そして今でも止まっていない。
こうして現実世界におけるシリア内戦が明らかにしたのは、明白な非人道的行為や不正義が行われている現状を目にしても、せいぜい口先で非難することはあっても、誰もシリアの内戦を止めるために実際に動こうとはしなかった――どころか現実に動いたのはむしろ積極的に『戦争』を援助しようとする人たちばかりだった、というとても救いようのない事実だったわけですよね。
それでも、かつてならば「知らなかったから」「知るのが遅すぎたから」と言い訳(確かにその言い訳はそれなりに説得力がある)できていたんです。ところが――幸か不幸か――こうして誰もがカメラを持ちネットに公開できるこの時代では、私たちはそうした逃げ道を使うことすらできなくなってしまった。
かくして、私たちはその経緯を最初から最後までほとんど全て知っている上で、平和を愛するはずの先進国に住む世界中の人たちが一致団結してシリアを見捨てている現状は、まぁまったく「人間の進歩」なんてドヤ顔で言うことができない構図だよなぁと大変生暖かい気持ちになってしまいますよね。それどころか、むしろそこで何が起きているのか「解っていて」その上で見捨てているんだから、更にタチが悪いとさえ言えるかもしれない。
あまりにも剥きだしな国際関係という利害関係の前に、結局、沈黙することしかできていない「平和を愛する」人々の限界が、こうして見事に露呈している。




このシリアの構図と解りやすく対照的だなぁと思うのが、1950年からの中国共産党軍によるチベット侵攻であります。
「何故ああも中共軍によるチベットの侵攻を国際社会は手をこまねいてみていたのか?」という疑問について、一般には「国際社会は地理的にも情報的にも隔絶された当時のチベットの惨状を全く知ることができなかったからだ」という風に言われているわけです。国際社会が気づいたときにはそれは既に始まり趨勢は決まっていたし、継続的に情報を得ることさえもできなかった。ついでにいうと、同時期にあった朝鮮戦争で多くの人々の目はそちらに奪われていた。
おそらく、それはかなり正しい解答といって間違いないでしょう。ダライラマ先生自身も後悔しながら述べているように、当時世界から完全に隔絶されていたチベットだったからこそ、為すすべなく彼らは誰からも救われず見捨てられた。唯一の情報ルートだったインドは中国に配慮してその惨状についての情報を外に漏らそうとしなかったし、チベット人たちが国連へ訴えでようとしても、イギリスなどの配慮と中国の圧力によってあっさり握りつぶされた。
でもまぁ、こうして情報が洪水とも言っていいほどに流れまくっているシリアの現状を見ると、仮に情報があったとしてもチベットの末路にどれだけ違いがあったのかというと疑問ですよね。現在でも尚チベット人への弾圧はずっと続いているし、最近ではそれが更に激化していると言われているにも関わらず、しかし国際社会が中国に対して何か意味のあるアクションを起こせたことなどまったくない。
もちろん、そうでなくそれなりに紛争の抑止や平和維持活動が成功した事例だって沢山あることも指摘しておかなければフェアではないでしょう。ユーゴスラビア東ティモールなど、手遅れと批判されながらも国際社会の積極的な介入によって救われた命はたくさんあった。
――しかし一方で、その危機が主に大国の国家安全保障・核心的利益に関わるときは、たいていその危機は全く無視され、こうしてひたすら放置されることも事実なわけですよね。あるいは派遣国が自国が地域紛争に巻き込まれることを嫌えば、あっさりと撤収する。数十万人が虐殺されたルワンダなんかでも、現地に国連軍が配備されていても、彼らは深入りしたくない利害関係国などからによる命令に縛られて何もできなかったわけで。
別にそうした判断についての是非を言いたいわけではなくて、結局の所、救われるか否かは平和主義の有無でも現地被害情報の多寡でも犠牲の大きさでもなくてきれいな森や水の有無ですらなくて、よくある現実的な利害関係の帰結でしかない。




情報が溢れるばかりあろうが、逆に情報がまったくなかろうが、最終的に行き着く先は大して違いはなかった。いやぁどちらも「地獄の構図」としてはおっそろしいですが、より救えない構図なのは間違いなくシリアの方ですよね。こうして被害の大きさを知っていながら、しかし私たちは敢えてまったく無関心でいられる。
これが人間の進歩だというのならば、まぁ冷笑してしまう他ありませんよね。
無知の無知――知らないことさえ知らなかったチベットと、知の知――知っていることを知っているはずのシリア。でも結果的に起きたことはほとんどどちらも違いがなかった。
最早「知らない」「手遅れだった」という安易で、しかし万能だった逃げ道は封じられつつある。私たちは遠い海の向こうで平和が踏みにじられるのを半ばリアルタイムで知り、そしてその上で死体が数万単位で積み上がっていくのをただただ黙認している。もし動くときがあれば、それはリアリズムの観点からそれが肯定されたとき=自分の国の利益になるときだけ。
それってどう見ても、私たちが追い求め続けてきたはずの理想主義あるいはリベラリズムの限界なんじゃないかと。