カトリック教会の強さの秘訣

一部法王による地道な方針転換っぷり。


同性愛や中絶禁止は「狭量な規則」とローマ法王 : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
ということで元々「進歩的」と囁かれていた現教皇が、いよいよ本気を出し始めたそうで。

【ローマ=青木佐知子】AP通信などによると、ローマ法王フランシスコは、19日に世界16か国で出版されたカトリックイエズス会系雑誌のインタビューで、教会はこれまで同性愛や中絶の禁止といった「狭量な規則」にこだわり過ぎてきたとの見解を示した。
 法王は「重傷を負った人に、コレステロール値や血糖値を尋ねても無駄だ。まず傷を癒やすべきだ」との比喩を用いて、細かい規則にとらわれるより、救いを求める人に慈愛の心で接することが重要だと指摘。その上で、「新しいバランスを見つけなければ、教会の倫理体系は砂上の楼閣のように崩れ落ちるだろう」と警鐘を鳴らした。
 法王は7月、「もし同性愛者が神の道を求め、善意を持っているのなら、私は裁く立場にない」と発言し、波紋を呼んだ。一部のカトリック信者の間では、法王が就任後、中絶反対などを明言していないことへの不満があり、今回の発言も議論を呼びそうだ。

同性愛や中絶禁止は「狭量な規則」とローマ法王 : 国際 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

同性愛や中絶禁止、ついでにいえば神父の独身制の廃止にも言及していたりするんですよね。故に暗殺説まで流れていたりするそうで。まぁそろそろ否定し続けるのも限界な雰囲気=あまりにも反発しすぎると(トータルとして見て)信者が減りかねない、という冷徹な計算もあったりするのでしょう。
そもそもカトリック教会ってそうやって巧みに方針転換を重ねてきたからこそ、現在でも世界の宗教における一大勢力であり続けているわけで。


特に原始キリスト教の時代には、外部の慣習や風俗を取り込むことでその影響力を強めていった、というのはよく言われるお話ではありますが、しかしキリスト教――中でもカトリックというのは中世から近現代でもそうした性格は持ち続けているんですよね。中世のカトリックの躍進はゲルマンの慣習を取り込むことで大きく成長したし、近現代においてもそれは同様なわけで。それこそ、啓蒙思想の時代にはキリスト教は「破棄すべき伝統的価値観」の筆頭だったわけであります。現在では西側的価値観(=一部イスラム信者にとってはキリスト教価値観)とされる、近代社会や科学主義といったモノも、そもそもは伝統的なカトリック教会的価値観とは断絶したものであったのです。
そんな産業革命から近現代世界へと突っ走り――カトリック教会が完全に置いていかれている――ヨーロッパの中で登場したのが教皇レオ13世であります。まず彼は『トマスアクイナス』を復活させることでキリスト教の知的権威を取り戻し、そして1895年の回勅『レールム・ノヴァールム』によって、社会における教会というポジションを決定的に方針転換させます。当時(マルクスが登場したように)大きな問題となっていた労働者の権利を保護する立場を鮮明にすることで、カトリック教会は再び大きな影響力を取り戻すのです。つまり、貧者を苦しみから救うだけでなくて、貧者を救うために善き社会を構築する、所にまで踏み込むようになる。そうした政治的思想こそが、現代における政治風景にまで続いているのです。
その他にも、1962年の教皇ヨハネ23世による(宗教的寛容さを強調する現代キリスト教の流れを決定付けた)第二バチカン公会議などがあるんですが、この辺の議論は専門家でもアレやコレやでめんどくさいので割愛。


ともあれ、まぁそうした教皇たちの「世俗化」――というと微妙に語弊がありますけども――によるカトリック教会の方針転換というのはまぁ結構何度もあったことではあるんですよね。彼らはそうやって時代に応じて、社会に合うように教義の解釈を変更してきた。まぁ大抵の場合、「時代遅れ」と評されることになる転換ではありますが、それでもやらないよりもずっとマシで、こうして出遅れながらもきちんと時代の価値観の変化に合わせてくる柔軟性がやっぱり強みであるのだろうなぁと。
そうした適応の結果が、民主主義や科学主義など本来ならまったくキリスト教的価値観ではなかったはずの存在が、一部の反欧米なイスラム原理主義者からは「それは異宗教の価値観だ!」として非難されるようになっているのは、まぁなんだか気の抜けるお話ではありますよね。これまでも何度か書いてきたお話ではあるんですが、そうやって「色が付いた」と見られるからこそ、余計にその反発は大きくなっている現状なんじゃないかと。カトリック教会があまりにも上手く進歩した現代的価値観に適応してしまった故の、意図せざる悲劇。


みなさんはいかがお考えでしょうか?