典型的な(善意あふれる)現代人の姿

だからといって自分が何か動きたくない。


http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131014-00010012-agora-soci
うわー、炎上とまでは言いませんけども、見事に非難轟々であります。

ショッピングモールに車で来れば、すべてのことが簡単に済ませられる。便利なのは事実ですが、日本全国がこれによって画一化されていくのは、寂しい気もします。

日本という国は、それぞれの地域に独自の文化があり、たった数日滞在しただけでも、東京にいる時とは違った風習や生活習慣、食事などに触れることができます。それこそが日本国内で旅行をする楽しみの1つです。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131014-00010012-agora-soci

でもまぁこうした気持ちは『東京人』の中でも少なくない人たちの内心にある――それが客観的かどうかはともかくとして――「善意からの」言葉であることは事実だと思うんですよね。ワガママと言ってはその通りで身も蓋もないんですけど。
「特色ある地方や地元にはもっと活気があってほしい」
そう願うこと自体は別に結構なことなんですよ。ただそう叫ぶ人々というのが、しばしば、そんな内心の願いと、現実の振る舞いが乖離してしまっていることが多々あったりするわけで。口ばっかりの上から目線な人たち。
この人が実際にそうである――口では地域社会を大事にしようといいながら現実にはまったく画一化され洗練された都市生活を送っている――のかは、もちろん僕には解らないので適当なことは言えませんが、しかし文中にある「東京在住」という点から「お前もどうせ口だけなんだろう」と一緒くたにされて非難されてしまっているのが、この記事をめぐる構図だと思います。おわり。




さておき、こうした光景はまぁやっぱり珍しい姿ではないんですよね。
つまり、私たちは確かに地域社会の衰退に心を痛めるという『善意』を持っていて、正しく維持存続されていって欲しいと願うことはしばしばあるけれども、しかしだからといってその為に何か自分が積極的に動いているかというと、必ずしもそうではない。
例えば、上記のように「地元商店街の衰退を嘆きながら、しかし巨大モールや大型量販店やネットショッピングを使うのをやめない」し、「地球温暖化を嘆きながらもマイカーに頼る生活をやめようとしない」し、「原発を非難しながらも電気の使用量を(比率に従えば)30%カットすることも、料金が上がることも許容しようとしない」し、「政治家が悪いと叫びながら、しかし投票率は上がらない」わけで。
私たちはこうした現状に決して納得しているわけではないものの、しかし良くて黙認しているだけだし、もっとぶっちゃければ「自分だけは別に利己的に振る舞ってもいいだろう」と見て見ぬフリを続けている。自分だけはいいだろう、と。
善意溢れる現代人達の持つ『善意の二面性』について。



だから必ずしもこの構図って画一化された商品を提供する巨大モールやチェーン店たちだけが悪いわけではないんですよね。それはある意味で多くの人によって支持された帰結でもある。都市に住む人と地方に住む人、両者が望むことにそこまで違いがあるはずない。だから何も制約がなければこうなるのはある意味で当然なんですよ。
地域に密着した地元商店街にも素晴らしい利点がある、しかしこうした都市化のように画一化された商品やサービスにだって大きな利点があるわけで。より安価で、より均一化され、そしてより安定した商品やサービスの供給。それは単純にコストという面でも見れば、まず間違いなくより資本の大きい方が勝つことになる。
――かくして両者が比較された場合、後者の方がずっと『便利』だと考える人間がほぼ確実に多数派となる。
つまり、こうした状況を招いたのは、大型店舗の出店を許した法改正だけが悪いのかというと、必ずしもそれだけではないんですよね。確かにそれは引き金にはなりましたけども、しかしむしろそれは「保護」されていたものが開放されただけとも言えるわけで。それこそイオンのような解りやすい巨大店舗を防ぐのはともかくとして、ではそれぞれの全国チェーン店の出店まで規制すべきなのか、という点も同じく考えなければいけないでしょう。
だからむしろ問うべきなのは、あの古き良き伝統的な地域社会のようなモノたちについて、「敢えてコストを掛けても保護するべきなのか?」ということこそを考えるべきなのだと思います。そしてそのもう一歩先にあるのが、一体誰がその費用を負担するのか、といういつものお話へ。
この辺はむしろ、多分化主義や文化保護のような議論と近いところになったりするのかなぁと。




敢えてコストが掛かる「それぞれの地域に独自の文化」の存続を望むのは各人の自由であります。しかし、その保護にはやっぱりコストが掛かる。直接的な補助金から、間接的に地元住民が被る追加のコストまで。それを第三者的な立場から、善意とはいえ望むだけ望んで、後は自分の知ったことではない、なんて言い放つのはやっぱり誠実な態度とは言えませんよね。

東京の人間のわがままなのかもしれませんが、地元で個性あるお店を続けている人の商売が成り立つような社会になって欲しいと思いました。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20131014-00010012-agora-soci

だから思うだけじゃダメなんですよ。もう一歩先に踏み込む必要がある。その覚悟がないままにこうして放言してしまえば、まぁ怒られるのは当然ですよね。
なら、その為に、一体誰がそのカネを払うのか?