ナショナリズム、宗教的熱狂、反原発デモ、アラブの春、流行に飛びつく人々、各種ライブやコンサート、オタクのイベント、すべての根底に等しく流れるもの

同胞との一体感を共有したい。


富野由悠季 「匿名性というバリアに守られながら少数派を“非国民”と叩く、特に今はネットがその主舞台だからたちが悪い。」|やらおん!
現在のインターネット社会がそれを盛り上げる一因となっている、というのには同意する所ではありますけど。

つまり、世論がこのように沸き立っちゃうと、
それに対して少しでも異議申し立てをした者へのバッシングには理屈はいらないんです。
自分の希望を体現する事象は無批判に受け入れ、それを認めないものは徹底的に排除する。

こういう群集心理は確実にあって、特に今はネットがその主舞台になるのでたちが悪い。

匿名性というバリアの内側で便所の落書き気分でそれをやるから制御が効かないんですね。
まったく困ったものです。

富野由悠季 「匿名性というバリアに守られながら少数派を“非国民”と叩く、特に今はネットがその主舞台だからたちが悪い。」|やらおん!

でもそれが『匿名』によってもたらされているのかというと、微妙にズレているんじゃないかとも思うんですよね。むしろそれは逆じゃないのかと。もちろんだからこそバッシングが加速するという面もあるでしょう。しかし匿名というバリアがあるからこそ、群集心理に対して水を差すことができていて、結果として致命的な暴走が抑制されているんじゃないかと。実際、ネット上ではしばしば見られる光景としてある現実世論との乖離――東京オリンピックについて結構批判の声は(様々な理由から)大きかったりしましたよね。
――では、こうした現象があるにも関わらず何故私たちのそんな群集心理は加速しているのか?
というと、それはまぁ身も蓋もなくインターネットがもたらした『繋がり』というのは、同時にまた強い自己疎外をもたらしているからだと思うんです。私たちはほとんど場合で自分ひとりでインターネットをし、スマホをいじり、テレビを見る。デイヴィッド・リースマン先生が『孤独な群衆』という言葉でもう半世紀以上昔に指摘していたように、高度に工業化された社会は、かつてあった社会とは違って私たち一人一人が決定的に分裂している。
しかし、それでも私たちの本能的な欲求である「同胞と一体感を抱きたい」という欲求は消え去っていないのです。だからこそ私たちは現代社会において、その代替をひたすらに求め続けている。インターネットを初めとする孤独な社会で生きるようになった私たちだからこそ、SNSのような「繋がり」に没頭するし、現実に人々と寄り集まって何か大きな一体感を味わいたい。個人よりも大きな存在の一部であることを実感したい。こうした欲求こそが、大きな社会現象へと変えるエネルギーの根本にあるのです。




こちらも一世紀以上昔にデュルケーム大先生が『宗教生活の原初形態』という名著で看破しているように、キリスト教における『教会』ってそういう役割を果たしていたんですよね。
つまりそれは宗教的な礼拝の場というだけではなくて、社会学(集団力学)という面から見れば、それは人々が共通目的の下に一同に集まることである特別な共有体験を実現させる為であったのです。ただの個人では味わえない、多数の人間が一箇所に寄り集まることで何か大きな霊的存在にあるという感覚を作り上げる。それは上記にあるように私たち社会的動物である人間の本能的な喜びととても合致するものであったわけです。とてつもない喜び。故にそれは、聖なるもの、である。




だからこそ私たちはしがらみに縛られた共同体を憎む一方で、それを求め続けてもいるわけで。「疲れる」なんて言いながらそれでもSNSにハマってしまったりする。ジレンマそのものでありますよね。
集団に加わることで得られるエネルギーと熱狂。あの感動をもう一度。それ自体は別に善悪の問題ではないのです。ただただそれは気持ちいいから。
インターネットをはじめとする文明の利器によって、最早かつて強力な帰属意識として機能していた、家庭・職場・地域社会・宗教・国家といった旧来の共同体からもう切り離されつつある私たち。
しかしだからこそ、現代はそうした一体感に飢えているとも言えるんじゃないかと思うんですよね。まぁそれを何処に求めるかは人それぞれであるのでしょう。何かを変えようとするデモに参加したり、流行する商品やドラマや音楽について語り合ったり、同好の仲間たちを見つけたり、そしてそれを旧来あった企業や宗教、そして国家に再び求めようとする人たちもやっぱり居るのでしょう。もちろんこれが全てであるとは言えませんが、それでも彼らを突き動かしている一因はやっぱり同じ欲求であると思うんですよね。
つまり、同胞との一体感を味わう為にこそ。




みなさんはいかがお考えでしょうか?