(知識)貧者の核兵器

だからこそ、(知識)富者な人たちほどそれを憎みポジショントークに走るのだ、とまで言うと怒られてしまいそうですけど。


2013-11-23
ということでちきりん先生激おこであります。

ちきりんが「Aだ!」といったときに、「いや違う、Bだ!」と言える人は、自分のアタマで考えてる人です。単に結論が違うだけ。

でも、たいていの人は、そこまで言えません。自分は何も考えていないので、あたしが「Aだ!」と言った時、「いや、Aではない!」としか言えないんです。

いわゆる「批判と否定しかできない人」ですね。自分の意見が無いから、他者の意見を否定するしかない。これもかなり恥ずかしいよねと思うけど、それでも下記に比べたらまだマシです。


一番つまらないのは、

「Aともいえるが、Bともいえる」

みたいな意見です。

2013-11-23

まぁ言いたいことは解らなくはありませんよね。「Aといえるが、しかしBなこともあるのでは?」というのはあまりにも無敵過ぎるんですよ。上から目線で、ドヤ顔で自説を滔々と語る人に向かって「ふむふむアナタの仰ること(=A)は解りました、でも、一部にはBという例外部分もあるのでは?」というのは、限りなく正論に近い。
しかし私たちは人間である以上、すべての例外事項を完全に網羅できるわけはなく、だからといって出来る限り先回りしてエクスキューズを置いた発言なんて迂遠過ぎて誰も聞いてはくれないでしょう。まぁ偶にはてな日記でもそうやって全てにエクスキューズを付けようとしているのか、異様に脚注部分が長くなってしまう人も居ますけども、まぁご苦労様ですと生暖かい気持ちになります。
「Aともいえるが、Bともいえる」
ともあれ、これは高度に専門的議論から、あるいはより身近な世間話に至るまで、ほとんどどんなお話にでも適用できるある種万能な『挑発』なのです。その論点に関してまったく知識がなかったとしても容易に使える貧者の兵器。その上から目線で一般論を語る知的エリートを怒らせる必殺の一撃。あまりにも身も蓋もなく、そして強力すぎるバランスブレイカー。故に「失うものが大きい」一部の知的エリートたちにとって、どうにかして条約で使用禁止してしまいたい程の兵器として。
イギリスの風刺作家であるステファン・ポッターさんはこうした構図をジョークの一種として次のように表現しているそうで。

例えば自分が何も知らない国の専門家を困らせるにはいったいどうしたらいいだろうか?
――簡単だ。まず専門家がその国に関する知識を解説している間は礼儀正しく聞いておく、そして専門家が語り終えたあとで、最後にこう一言述べればいい。
「まったくその通り、実に正しい。疑いもなく。でも、その国の南部では違っていますよね?」

その意味で、(おそらく一般の人たちよりもずっと)『賢い』ちきりん先生はもうずっとそうした挑発を受けてきたのだろうなぁと、その内心を慮ってしまいます。ご愁傷様です。ただの愚痴と言ってしまっては限りなくその通りなんですけど。
「へぇー、でもちきりん先生、それってAじゃなくBの場合もありますよね?」
そして正論だからこそ、人は激怒する。必ず、かの邪智暴虐な言説は抹殺せねばならない。一番つまらない! 役立たず! そんなこと言うやつは仕事のできない無能だ! こんな上司になってはいけない!



ちきりん先生の心にやすらぎがありますように。
そんじゃーね!