環境問題の多くが現代の『ニュース』の性質と相性が悪い理由

その無関心さの背景にあるもの。いつだって長期悲観、でも短期楽観。



ウナギもマグロも消えていく 動かぬ水産庁尻目に火が付くか“消費者運動” WEDGE Infinity(ウェッジ)
ウナギやマグロなどの漁業資源の危機について、とても真っ当なお話。まぁ仰ることは解らなくはありませんよね。一部ではもうずっとその漁獲減少と枯渇の危機は叫ばれていながらも、しかし私たちはそんなことを無関心と見て見ぬフリを続けながらウナギやらマグロやらを食べまくる私たち。
以下、海洋資源保護が必要なのはまず間違いない、ではその必要性は何故大きな声にならないのか? についての適当なお話。

「日本は乱獲漁業を放置し、魚を減らしてきました。水産庁の仲間うちでは事態の深刻さを認識していましたが、発信してきませんでした」

 自責の念に駆られている元水産庁職員が語ってくれた。「水産庁にも現状を憂える人は多いですが、業界団体、族議員が睨みを利かせており、改革は簡単ではありません。改革には外圧が必要で、消費者の声、つまり世論が最も有効な外圧です」

ウナギもマグロも消えていく 動かぬ水産庁尻目に火が付くか“消費者運動” WEDGE Infinity(ウェッジ)

まぁもちろんこうした「放置状態」「現状維持」というのは利害関係者・既得権益者による横ヤリもあったりするんでしょうけども、ただそれだけで『世論』の主役たる一般の人びとの無関心さが説明できるわけでもありませんよね。
それこそ私たち現代日本人は老若男女とわず今尚、ごくごく世間話の一環として「今日は寿司でマグロたべたおいしい」「ちょっと贅沢をしてウナギたべた」「ウナギをたべて元気をつけよう」なんて言説はもう素朴な日常風景としてあるわけで。そうした会話をする人たちも、もちろん頭の片隅には多かれ少なかれそうした漁業資源の危機があることは知ってはいるでしょう。実際、そうした商品の値上がり傾向なのは間違いないのだし。
――しかしだからといって「多少値上がったとはいえ」去年も食えたし、今年も無事に食えた、だからきっと来年も同じだろう、と考えているだろう大多数の人たちの楽観を抱く心理も理解できなくはない。


いつか枯渇してしまうかもしれない、でもそれは今すぐじゃないだろう、なんて。


これは単純に市民たる私たちの無関心さというだけでなくて、現代のジャーナリズムのある種の限界でもあるのだと思うんですよね。こうした這い寄る混沌、じゃなくて這い寄る危機に関しての関心をあげられないのは、単純に中の人たちの意識の低い高いというよりも、それこそ現代社会の構造的問題でもある。
つまり、大抵私たちは日常の中にある『劇的な変化』こそにニュース性を見出してしまうのが常であり、故にまた日々の報道にもそれを求めてしまっているわけで。
それは技術進歩によってリアルタイム性・即時性が向上したことによる弊害でもあるのでしょう。逆説的に長期的な変化、日々ゆっくりと進む悪化にはあまり関心を払わない。ジャレド・ダイアモンド先生が「風景健忘症」と名付けるような構図。いつだって私たちはそうした長期的にゆっくりと進む変化(悪化)を過小評価する傾向があるんですよ。そしてそれは自己成就予言のごとくそうした変化のニュースを軽視するし、故に『商売』としての利益を気にするマスコミ関係者たちもそれに正しく対応する。
もしこれが劇的な変化、所謂『ノンリニア効果』のような一定の分岐点を超えた際に生じる唐突で決定的な変化が実際に起きてしまえばまた別でしょう。一昨年はふつうに食えた、去年も食えた、それなのに今年になっていきなりウナギやマグロがまったく口にはいらなくなるなんて! まさかこんなことが!!!1
そんな事態が起きれば嫌でも注目するでしょうし、きっと大ニュースになり、世論は一気に傾くでしょう。でもまぁ、かつての環境問題がそうであったように、それってどう見ても手遅れなんですけど。徐々に悪化していき、帰還不能点を越えた後でようやく失敗したことに初めて気づく後の祭りな歴史の数々。
おそらく年を経るごとに、こうしたウナギやマグロを取り巻く環境は徐々に悪化していく。そして、少なくない私たちはいつしか決定的な破綻=『ウナギが食卓から消える日』が来るかもしれないとも覚悟もしている。ただ、それでも、そんな長期悲観をしていながらも、しかし、でも今日今すぐ動く必要はないよね、という短期楽観なポジションを取りつづける私たち。
いやぁどうしようもありませんよね。



だからこそ個人的には、こうした日本に限った話ではなくほとんど世界中でみられる風景「長期的な変化に対しては致命的な鈍感さを発揮する世論の傾向」をどうにかする努力をする位なら、さっさと既成事実として(危機意識を世論に訴えかけるためにも)海洋資源保護において決定的に重要な国家間の協力体制を作る方が、まだ人目を惹きやすいニュースとして扱われるという意味で近道なんじゃないのかと思うんですよね。
それこそ現代社会のジャーナリズムの構造って、こうした長期的で緩やかに悪化していく――特に環境問題に多い――問題の注意喚起に死ぬほど向いてないわけだから。良くも悪くも劇的な変化なニュースにしか目にいかない私たち。でもそれも仕方ないのかもしれません、だって情報があまりにも溢れすぎていて、とても全部は追いきれない。
駆り立てるのは野心と欲望 - maukitiの日記
手をとりあって - maukitiの日記
以前の日記でもそんなことを書いたんですが――そしてなぜだかものすごく怒られてしまったわけですけども――まぁそうした規制の枠組み作りを担う人たちの間にさえも「抵抗勢力を突破する為にこそまず世論形成からだ!」という意見があるのは正直意外だよなぁと。それほど切羽詰っているのかと。


世論を作るのが先か、危機意識を根付かせるのが先か。なんだか卵と鶏みたいなお話ですよね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?