被害を「誇張する」人たちの功罪

目的が正しければ手段は正当化されるとばかりに、臆面もなく誇張する人たち。



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ということでそれはもう愉快なことをおっしゃっている反原発な細川さんであります。僕はまるっとデマであるとは思っていますけど、もちろんこれが真実なのかもしれないという可能性だってそれなりにあるでしょう。もしかしたら彼も薄々それが解っていて、しかしそれでも一発逆転の可能性に欠けているのかもしれない。
ただ、それでも彼がこの発言をする前に最低限考えておかなければいけないのは、もしこれが真実でなかった場合の悪影響なんですよ。
その点について何も考えていない、あるいは考えているようには全然見えない点こそが「目的は手段を正当化する」なんて確信するマキャベリ主義者のような人を見るのと同じく、ロクでもないよなぁとしか思えないんですよね。


といってもまぁ別にこの人に限った話ではないし、他にも多くの事例で「善意あふれる」人たちがその惨状を敢えて大げさに叫んできた事実もあるので、殊更に彼のみを責めるのもあんまり公平ではないしょう。言ってしまえば日常風景でもあるわけで。
つまり、被害を誇張することで多くの耳目を集める手法について。
実際、そうした手法にまったく効果がないということもできませんよね。敢えてその被害や数字を大げさに強調することで、それまで興味を持たなかった人たちの関心を引くことができる、というのは否定できない真実でもあります。またそうしなければマスコミは取り上げてもくれない、というのも真理ではある。ただこのやり方ってかなりの面で『劇薬』でもあるんですよね。そうした誇張の皮が剥がれたとき、一体なにが起きることになるのか、その点について見て見ぬフリをする人たち。
最初に誇張を聞かされた人たちは、しかしその後に事実としての「そこまでではない」実態を聞かされれば、ごく当たり前に安堵する。そのギャップは確実に「よかった、苦労はそれほどじゃないんだ」なんて認識に繋がることになる。
その悲劇を誇張することは、現に起きた――まさに現状で苦労を背負い続ける福島原発の被害に苦しむ人びとのそれを、相対的に軽視することになるということを致命的に解っていない、あるいは解っていて自身の政治的目的を達成するためにそんな問題は些細なことだと無視している。こんなの少し考えれば解るはずなのに。
結果として起きるのは、現状の惨状でさえ十分に悲劇的だというのに、しかしそのギャップによって現状で既に苦しんでいる人たちを「大したニュースではない」とばかりに見失わせることになる。


こうしたバカげた構図は原発をめぐる議論において、これまでももう何度も繰り返されてきたわけで。それなのに何度も何度も繰り返すのは、ほんともう「まるで成長していない」と安西先生ばりの生暖かい気持ちになってしまいますよね。そうやって現実の被災者たちを相対的に軽視することを繰り返すことで、結果として更に一般からの関心は薄れ、そしてその失われた関心をもう一度取り戻そうと誇張をする。
(良かれと思って)被害を誇張しては、その後に更なる無関心を招来する人々。
ぶっちゃけ反原発派の皆さんが、それこそ事故直後にはあれほど勢いがあったのに現在ではご覧の有様であるのは、こうした心底バカげた過程にこそ最大の要因があるんじゃないかと思います。彼らは「目的は手段を正当化させる」とばかりに自滅的な振る舞いをすることで、長期的な関心を漸減させてきた。
もちろん利害関係から(恣意的に)被害をより小さく見せようと働きかけてきた人たちも居ることは事実でしょう。そしてそうした働きかけが多少なりとも原発問題についての人々の無関心さを呼んだこともあったかもしれない。
――ただ、それと同じか、あるいはそれ以上に、原発問題の風化を招いているのがこうした「善意ある」人々の誇張による帰結だとも思うんですよね。
正直この罪は大きいよなぁと。


皆さんはいかがお考えでしょうか?