多様性とデマのあいだ

もちろんそれは大事だけれども、必ずしも何を言っても許される「魔法の杖」「銀の弾丸」というわけではないよね。


【カナロコ・オピニオン】「時代の正体」批判について(5)|カナロコ|神奈川新聞ニュース
うーん、まぁ、そうね。言っていることは概ね正論ではあるかなぁと。

 だから空気など読まない。忖度(そんたく)しない。おもねらない。孤立を恐れず、むしろ誇る。偏っているという批判に「ええ、偏っていますが、何か」と答える。そして、私が偏っていることが結果的に、あなたが誰かを偏っていると批判する権利を守ることになるんですよ、と言い添える。 ほかの誰のものでもない自らの言葉で絶えず論を興し、そうして民主主義を体現する存在として新聞はありたい。(論説委員・石橋学)

【カナロコ・オピニオン】「時代の正体」批判について(5)|カナロコ|神奈川新聞ニュース


ただ、大震災とそれに伴うデマ氾濫以来特に言われるようになったお話でもありますが、だからといってじゃあ「多様性の名のもとに」何を言ってもいいかというと絶対にないわけで。
それこそ全く信じられていないデマや事実誤認と概ね主流意見としてある両論を、まるでどっちもどっちとばかりに並べて書くのは多様性確保というよりは悪質な印象操作であるし、震災後の報道において問題視されたのはそうした態度であるわけですよ。
多様性の名の下に、専門家の知見とまったく知識のない素人の個人的感想、を同列に並べる人たち。いやまぁ反知性主義的には正しいかもしれませんけども。
だからこそ、朝日新聞さんちの(慰安婦問題はさて置くとしても)福島原発報道はあれだけ批判されているし、あるいは産経さんちの修正主義と紙一重なバカな歴史戦報道は批判されているわけで。悪名高いプロメテウスのあれとか、まさに「偏っている」という批判でもあるのだと僕は思っていました。


デマや事実誤認を多様性の名の下に擁護するのは、それこそ民主主義と、それを支える報道の自殺じゃないのかと。
シャワーヘッド「水通せば殺菌」 福岡のメーカー開発:朝日新聞デジタル
うんうん、それもまたタヨウセイだね。
ここ最近も話題になっていた上記トルマリン電気分解のように、もちろんこうした事を「信じる」人たちが要るのは理解できますけども――広告だと明示するならともかく――こんなの載せておいて多様性云々言うのは正直都合が良すぎるんじゃないかと。こんなバカな事書くのも新聞の『多様性』を守ることになるの? いや、朝日やサンケイあるいは東スポなんかと一緒にするなと神奈川新聞さんが主張するなら是非とも応援したい所ですけど。


上記カナコロさんが言うように、言論を制御し多様性を損ねたいために新聞報道を批判する人も一部居ることは事実でしょう。おそらく権力側からも反権力側からも同様に。
――でも現在大多数から真っ当な批判としてあるのは、そうしたある意味で多様性を建前にした明らかなデマや事実誤認があまりにも行き過ぎているからこそ、今になって新聞の存在意義や正当性が問われるようになっているんじゃないかと思うんですよね。民主主義どころか、そんな態度こそが新聞を体現していると。


もちろんその多様性確保の建前は素晴らしいものだし実践できれば尚良いと思います。ただ今の一部報道ってむしろそれを悪用しているようにしか見えないのが問題なのを、本当に解っていないのか、あるいは解っていてこんな自己正当化を主張しているのか正直不安になるお話ではあります。
何で、今、新聞が「偏っている」と批判されているのか本当に解ってるのかと。


みなさんはいかがお考えでしょうか?