「過激化の原動力」を探して13年

ジハード非難と宗派対立のバランス維持の難しさ辺りかなぁと。


ジハードの脅威に立ち向かう米政権:JBpress(日本ビジネスプレス)
まぁこの辺は愉快なアメリカの――というよりはむしろオバマさんのジレンマではありますよね。

  よくあることだが、政治的な点数稼ぎはより大きな超党派の問題をぼかしてしまう。オバマ政権はこの週、暴力的な過激主義について議論するために60カ国の閣僚と3日間のサミットを開催した。ハーフ氏が事前に説明していたのが、この国際会議だ。

 サミットの顕著な特徴は、「9.11」のテロ攻撃から10年以上経った今、米政府がまだテロの「根本原因」について同じ対話を行っていることだ。

 アフガニスタンイラクの戦争、そして「対テロ戦争」を13年間戦ってきた末に、米国は振り出しに戻り、人が急進的になる理由を説明するのに腐心している。

ジハードの脅威に立ち向かう米政権:JBpress(日本ビジネスプレス)

確かに子ブッシュさんの「あの」かなり単純化された世界観というのは完璧ではないし、むしろ問題点が多かったわけではあります。そこに議論の余地はない。ただ、それがダメならば、他にどのような代替のポジションがあるかというと、オバマさんをはじめやっぱりそこで多くの人が立ち竦んでしまうのでした。
――まさに上記リンク先で指摘されているように、その問題を考えるには難しすぎるから。あれから13年経ってもその立ち位置は定まっていない。
その意味で言えば、少なくとも事件直後から短期間の内に(問題点も多いネオコン的な)解答を、とにもかくにも見出した子ブッシュさんは緊急時の政治的指導者としてはまぁ最悪ではなかったのかなぁとも少し思います。


ともあれ、サミット=偉い人たちが大好きな「話し合い」がもたれましたけども、やっぱりそこでは明確な答えはなかったのでした。ていうかしばしば見られる宗教対話って、やっぱりその宗教内部における「対話派」「穏健派」が参加する一方で、問題となる「非」対話派や原理主義的な人たちがまったく参加していない、つまり当事者不在でのまぁ対話というポーズを強調する為の対話にしかならないことがしばしばなんですよね。
イスラム(過激)をケンサクケンサクゥ! する若者たち - maukitiの日記
――で、やっぱり先日の日記でもネタにした通り、毒にも薬にもならないオチしか出ないっていう。
やっぱりそこに確たる回答は尚も見つかっていないわけですよね。日本でもしばしば見られる主観による善悪の判定や、あるいは歴史的経緯や環境やら中東の外交政策史の解説はなされるけれども、しかし肝心の「過激化への原動力」についての解説や疑問にはきちんと答えられない。



ちなみに池内先生なんかはこの問題に対して(乱暴にまとめると)、実際の欧米諸国から受けた苦難の歴史が、アラブ世界の住民に(宗教的な終末論と共に)陰謀論として強く結びつき、それがイスラム内部の責任追及の問題を棚上げしてきた結果である、と述べていらっしゃいます

(前略)「テロはいけない」と言いながらも必ずその後に「しかし……」と続け、アメリカに責任を転嫁する論調を戒めている。ファンディーは、パレスチナ問題などに関してアラブ世界が「人種や宗教に左右されずに正義が実現されることを求めてきた」にも関わらず、なぜ他者に対してはその正義を示せないのか、と問う。「我々がまず正義を示す。そうでなければ、われわれが正義を求めた時に他者は耳を貸してくれない」というのはアラブ世界の知的状況に対する根本的な批判だろう。*1

彼らにはなまじ説得力のある責任転嫁の対象が外部世界にあることが、集団内での真っ当な改革や事故批判をも封じ込める構図を生んでいる。*2
まぁこの辺は私たち日本のお隣にある便利な「反日」と同じ構造なのかなぁと思ったりします。なまじその(実際に歴史として見ても適役な)悪役が居てしまうことが、「それはそれとして」社会内部の健全化を願う真っ当な人物までもが「親日」とレッテルを貼られて排除されてしまう構図。もちろんこれは私たち日本でも例外ではなくて、親米や親韓や親中としてレッテルを貼ることで真っ当な意見まで封じ込めようとする風景はやっぱりあるんですけど。
――まぁその意味では、人類社会に普遍的なお話ではあるのでしょうね。外部世界に責任転嫁できてしまう故に、前に進むことが難しくなっている人たち。
ということで個人的にもやっぱりイスラム教内部で解決するしかないのかなぁと思います。もちろんそれは、一部から言われるような『イスラム国』をイスラム教徒が批判しないから悪いのだ、というモノでは絶対にないです。ただ、やっぱりそれは「曲解」しているとはいえ彼らの教えであり、彼らの宗教であるわけですよ。それを私たちのような外部の人間が幾ら言った所で、イスラムを外部から変えようなんておこがましく、それはそれで、むしろ反発を買うだけでしょう。それは外部の欧米知識人からではなく、まさに当事者であるイスラム内部にいるはずの真っ当な知識人たちが前面に出て改革できなければ意味はないよなぁと。
テロリスト批判が無いから問題なのではなく――むしろその声はずっと大きい――何故それが大きな影響力を発揮できないのか。何故そうした平和的なイスラムの声は「過激化の原動力」に勝てないままなのか、というのが問題なのでしょうね。



ただ、やっぱり彼らのその「煮え切らない」批判となってしまうのも理解できなくはないんですよね。それは上記のような陰謀論大好きな素朴な人びとへの批判ともなってしまうし、そもそもイスラムにおける異端視=タクフィール=「不信仰断罪」ってかなり危うい手法でもあるわけですよ。
忘れ去られるイスラムの叡智 - maukitiの日記
以前の日記でも少し書きましたけど、「平和を愛する」イスラムの人たちは宗派対立を抑制する為にこそ、そうしたやり方を封印してきたわけで。その意味で彼らが「平和を愛する宗教」であることは間違いなくて、しかしだからこそ、彼らは熾烈な宗派対立に踏み込みかねないその内部の過激派対策を進めることができないのでいるのではないかと思います。それこそ『イスラム国』に関わる現状を見ればよく解るお話ですよね。はじめは反欧米・反体制運動だったそれは、いつのまにか熾烈な宗派対立がメインに取って代わられている。


彼らにとってジハードと宗派対立はほとんど紙一重の問題なのではないかなぁと。前者を解決しようとすれば後者の問題に直面することは避けられない。
いやぁこれはこれで死ぬほど難儀なお話ですよね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:『アラブ政治の今を読む』P169

*2:この辺のお話については、『現代アラブ社会思想』や『アラブ政治の今を読む』が面白いので興味ある方は参照すればよろしいかと思います。