自由の名の下に、冷たい方程式を

準備のできないまま「戦時」に足を踏み入れつつある私たち。


世代間の公平性:英国という老人国家:JBpress(日本ビジネスプレス)
まぁ日本にとっても他人事どころではないお話ではありますよね。少子高齢化の問題について。
もちろん楽観的理想論においては、若者たちは敬愛すべき老人を出来る限り厚遇するべきであるでしょう。しかしそんな理想論とは裏腹に、それを実現できることが人間の歴史においても決して普遍性があるわけではなく、ただ「幸運」なだけなんですよね。より長期的な人間社会の歴史を見て、それをできるだけの余剰リソースや社会保障を用意できることが「常に」できていたわけでは絶対にない。
最早忘れ去られつつあるものの、私たちは様々な試練に直面しては、それらを諦めるしかなかった状況に恒常的に追い込まれてきたわけですよ。飢餓や、悪天候や、天災や、戦争や、感染症やら。それらを乗り越える事が出来た私たちは、特にここ100年の間は高齢者を取り巻く環境はほぼ一貫して改善し続けてきたと言っていい。
それでも、そんな幸運は終わりつつある。再び解決困難な危機に直面してしまった。少子高齢化の問題という危機に。

 多くの老人は不当な扱いに気分を害するだろう。普遍的な公的年金は長年、福祉国家の礎と見なされてきたからだ。

 だが、資金は不足しており、今日の低所得者から富裕層への再分配の規模を擁護することは難しい。

世代間の公平性:英国という老人国家:JBpress(日本ビジネスプレス)

かくして「冷たい方程式」が必要とされる時代が再びやってきつつある。
以前からその(財政的に)決定的な影響を与えることから「戦争」に例えられることが多いこの問題ではありますが、この血も涙もないトレードオフを迫られるという点でもやっぱり「戦争」状況というのには一理あるよなぁと不謹慎ながら納得してしまうお話であります。



さて置き、こうした道の果てにある故にどうしても避けられない問題として浮上するのが、私たちが(過去の歴史を思い出しては)震撼するしかない選択肢なのだろうなぁと思います。もちろんこの試練を耐えがたきを耐え忍びがたきを忍ぶことで、綱渡りを続けながら逆ピラミッド状態から縮小再生産を繰り返すことでどうにか人口動態を安定させることができるかもしれない。しかしそうならないかもしれない。
――というか今のままだとそうならない可能性の方が、たぶん、高い。
豪、コアラ700匹安楽死 生息域に過剰状態、一部で飢餓の恐れ - 産経ニュース
増えすぎたコアラのように処理され乗り切らなくてはいけなくなる(かもしれない)未来。もちろんそこに明確な強制性が含まれることは、人間社会の進歩という意味でおそらくないでしょう。それを少なくとも表向きには拒否する程度には人間は進歩しているはずです。しかし一方で、自発的、という点で言うとやっぱりありうるのではないかとも思ってしまうんですよね。もちろんそこに暗黙の圧力もあるでしょうけども、大勢で見ればそこに選択の余地が用意されることになるのではないかと。自由の名のもとに。
安楽死――つまるところ自殺幇助か自殺推奨。
考えるだけで嫌になるお話ではありますが、しかしやっぱり多くの先進国を見る限りそうした議論は個人の「自由」の権利を建前にして、医療機関や裁判やら議会やらで取り扱われることを目にするようになってきていて、徐々に表面化しているのは否定しようのないトレンドでもあるわけですよね。
ここで両者が合流することで悪魔合体してしまいつつある現状。
その意味で言うと、ひたすら悲劇的な覚悟でもある「自分も協力的な態度を取ろう」という世代がより大きな多数派として生まれるのは、これから先、渋々ながら冷たい方程式に若い世代で今後経験していく人たちこそが、むしろそうなっていくのだろうと思ったりします。悲壮な覚悟による自己犠牲と、悲しいまでの諦観によって。
彼らは冷たい方程式に直面せずとも済む幸運な時代が終わったことを身をもって知っているから。


みなさんはいかがお考えでしょうか?