自由を信用できない私たち

自由か正義か。


タイラー・コーエン「リベラルならざる改革者たち:進歩派と優生学」 — 経済学101
面白いお話。

とはいえ,べつに現在の進歩派が邪悪だとか人種差別的だという話ではない.ただ,進歩派の思想にはまだまだミルが足りていないし,個人の自由の強調も十分じゃないと言いたい.進歩派たちが〔疑問を覚えずに「リベラル」という〕自称を継続して選んでいるところからみて,どうやらこの点を彼らはあまり気にしていないのか,もしかすると,十分に気づいていないのかもしれない.進歩派たちにしても,ミルのもっと実践的な改革進歩主義はかなり強く賛同するなり,かなり深く考えもするだろうけれど,ミルをはじめとする人々の哲学に現れた「個人の自由」というもっと広い哲学の方は,彼らにとってしっくりこないらしい.これは大きな問題,とても大きな問題だ.もっと長い目でみても,進歩主義優生学の歴史は,この点をもっとも単純かつ鮮明に描き出す事例なのかもしれない.いまの「左翼」が言論の自由をあまり強く掲げていない理由の1つはここにある.

タイラー・コーエン「リベラルならざる改革者たち:進歩派と優生学」 — 経済学101

個人的なポジションとしては同意する所ではありますが、しかし現代(特にアメリカ)における『リベラル』というのは自然法のような社会正義を目指すために介入が必要という立場なのでさもありなん、という感じかなぁと。
自由をただ認めるだけじゃ正義はいつまで経っても実現できない、というのはまぁ実際その通りでしょうし。
平和と社会秩序の為には共産主義やナチ信奉者に人権はないっていう『戦う民主主義』の本場はヨーロッパだったりするし、それこそ優生学大流行の当時にしても、あれが流行った背景にあるのは攻撃的というか、むしろ第一次大戦の惨状から連想された白人世界の文明崩壊という悲観主義からの防衛反応でもあったわけで。更には優生学の流れの一部には所謂女性解放運動と結びついたのもあったりしたのでした。最下層の女性たちを無理な多産や流産から守るために産児制限をしよう、なんて。
この辺はリンク先でも言及されている現代版優生学に近いところがあったりしますよね。中絶が容認されている時点でこの議論はひたすらめんどくさそうですけど。


ともあれ、この辺は個人的に大好きで当日記でもよくネタにする「地獄への道は善意で舗装されている」という人間のすばらしさと愚かさがよく解る典型的なお話かなぁと思います。
少なくない私たちは、どうしても良いことがしたいがために、ミルの言う「自由」をそこまで信じられない。
何度かあった各種本屋騒動なんかでもそうでしたけど「(自分たちから見て)悪人には自由や人権はない」という某竜破斬のパクりなのか本気なのかよく解らないことを言う人たちが一杯なので、昨今の本邦を見ても耳の痛いお話ではありますけども。
「自由」をそこまで信用できない私たち。


みなさんはいかがお考えでしょうか?