事件を現場で見るべきか、それとも会議室で見るべきか

多数派少数派判断の入れ子構造について。


エミコヤマ氏「マジョリティをいくら罵倒してもそれは差別ではない」 - Togetter
わーたのしそう。マジョリティマイノリティ云々での『差別』の定義自体はご意見ご感想ケンケンガクガク色々あるでしょうしお好きにすればよろしいのでその点はさて置くとして、ただ定義にとどまらない「行為の正当性」という見方をすると、言いたいことは少し理解できるかなぁと。

マイノリティでもほかのマイノリティに対して差別することはありますが、マジョリティをいくら罵倒してもそれは差別ではないです。それを差別と呼ぶとしたら、もはや差別という言葉は無意味になる。そうやって差別への取り組みや抵抗を無化するのが差別主義者の作戦。

エミコヤマ氏「マジョリティをいくら罵倒してもそれは差別ではない」 - Togetter

少数派で弱い人たちがやって許されるラインと、多数派で強い人たちがやって許されるライン。いくら一般に平等なんかを言ってもそこに違いはあってしまうのは避けられないお話でもあります。その意味で、感情論としては理解できるかなぁと。
これって基本的には属性云々ではなく「周りが見てどう思うか」という点に尽きてしまうんですけど。そしてそれこそが移民難民で揺れるアメリカやヨーロッパの問題の根幹のひとつでもある。


この人の愉快な呟きが――おそらく本人の意図しない所で――現代世界でクリティカルなのは、ここで提起されているマジョリティかマイノリティかという問題の逆転構造が、特にヨーロッパやアメリカで表出し摩擦を生んでいる風景でもあるからなんですよね。
もちろん移民(難民)としてやってきた人たちは国内全体で見れば少数派ではあるものの、ところが彼らが狭い箇所に集まり過ぎると今度は現地住民との局所的な勢力逆転、あるいはその懸念が生まれることになる。全てではないにしろ移民難民を受け入れた果てに生まれている現地からの反感の一部分はそういう所から生まれているわけで。
彼らがこの構図の解決に現在進行形で苦労しているのは、あまりにも急に増やしたことで疑似的に入れ子構造のような形で多数派少数派が入れ替わってしまう点にあるんですよね。マクロで見れば彼らは少数派ではあるものの、ではそのミクロな地元で見た場合にも彼らは少数派なのか? それとも多数派なのか?
そんな見る立ち位置・ポジションの差異によって「許されるライン」と「許されないライン」が混交することで、あちらではどったんばったん大騒ぎになっているのだと個人的には思っています。


事件は現場で起きているのか、それとも会議室で解決するべきなのか。その埋めがたいギャップについて。
みなさんはいかがお考えでしょうか?