「小さな違いを乗り越えて団結できる!」私たちが生む地獄

そして総論賛成各論反対なデッドロックへ。


「政治的二極化」はなぜ生じるのか? - GIGAZINE
この『二極化』も現代民主主義政治における最前線のテーマの一つではありますよね。
それこそレビツキーとジブラットという両先生に言わせれば『民主主義が死ぬ』位には。
ちなみに上記著書の中では、アメリカでそれが進んだ理由として「民主党共和党」の二極化が先にあり、それから政党支持者たちの二極化へと進んだと指摘していました。まぁでも有権者が先にそうなったのかそうした世論を受けた政治家そうなったのか、鶏が先か卵が先かな議論ではありますけど。


ともあれ、ここで指摘されるバランス理論も中々面白いお話。

バランス理論では、「人間は『他人に対する好意』と『意見に対する好意』のバランスが保たれている状態を求める」とされます。例えば「『自分が好きな人』が『自分が好む政治的見解を持っている』」という場合は、他人に対する好意と意見に対する好意が一致しているため、認知関係のバランスが保持され、心理的な状態は安定します。同様に、「『自分が嫌いな人』が『自分が嫌う政治的見解を持っている』」という場合にも、他人に対する好意と意見に対する好意が一致しているため、心理的に安定します。

しかし、「『自分が好きな人』が『自分の嫌う政治的見解を持っている』」または「『自分が嫌いな人』が『自分の好きな政治的見解を持っている』」という場合には、認知関係のバランスが崩れ、心理的に安定しない状態となってしまいます。このような状況では、人は自分の感情のバランスを回復するために、相手に自分の意見を合わせるとのこと。

「政治的二極化」はなぜ生じるのか? - GIGAZINE

人間の業っぽくて死ぬほど皮肉だと思うのは、ここで批判されている「人間は『他人に対する好意』と『意見に対する好意』のバランスが保たれている状態を求める」って、むしろほとんどそのまま「小さな意見の違いは乗り越えて団結できる」という善き人間の美点だともされてきた所だとも思うんですよね。
つまり、この『バランス理論』が説明するところによれば、まさに私たちその小さな違いを乗り越えられてしまう協調性と社会性故に致命的な二極化に陥ることになる。


我々は好きか嫌いかというだけで協力し合える故に、些細な違いを乗り越えることができる。
上記リンク先のシミュレーションで示されているように、嫌いな相手とも「一つに」なるわけじゃ絶対にないのが救えないんですけど。
→我々は些細な違いを乗り越えて好きと嫌いの二極化という巨大なムーブメントを生むことができる。



そのとりあえず相手に合わせようというバランス理論の先にあるだろう現実が「総論賛成各論反対」という本邦でも嫌という程見かけてしまう普遍的内ゲバ構図と膠着状況が想像できてしまって、これまた地獄なんですけど。
いやあ違いを乗り越えて協力し合える人間ってすばらしいよね。
違いを棚上げてして上辺だけ協力しているだけとか言わない。
――でもそう考えると、政治の二極化と騒がしい昨今ではありますが、やっぱりその内実としては単にその違いを(今は)棚上げしている故に二極化のように見えるだけ、ということも言えたりするのでしょうね。
そしていざ実権を握った後は方向性の違いで分裂していくと。



がんばれ人類。