上方硬直するジャーナリズムの信頼性のはてにあるもの

「(ジャーナリズムの原則は)知ってるがお前らの態度が気に入らない」という私たち




三行で解る今回の通常日記風あらすじ。

  • 権力に殺されるまでもなく、レミングスのように集団自殺しているマスメディア。
  • 信頼性を取り戻そうとする真摯で誠実な人たちの良貨な行為は、日々積み重なる誤報や偏向や扇動といった無数の悪貨*1に駆逐されていく。
  • 事実上マスコミへの信頼性が上方硬直しているこの状況で、現状を打破するような銀の弾丸は存在するだろうか? うーん、まぁ、そうねえ……たぶんない。








割とバズってた、ジャーナリズムの独立性についてかなり面白いお話。


 

さすが専門家だけあって同意するしかないお話ではあります。
ジャーナリズムが独立性を失ってしまえば、我々が判断基準にすべき情報そのものが汚染されてしまう。
当日記でもかなりマスコミネタを書いていますけども、それは「メディアに重要な役割がある」という大前提に同意している故、でもあるわけで。
昨今のトランプ騒動で逆説的な意味としてかなり表面化したように、虚実ないまぜなニュースが流れる事は現実にリアルの政治を大きく動かすことがある。
『社会の木鐸』かは別としても、しかし大きな影響力があるのは間違いないんですよ。だからこそ彼らにはマジでちゃんとやってくれないと私たち自身が困ることになる。
――であればこそ彼らの独立性は守らねばならない。Q.E.D


だからといって、私たちから実際に独立性を守るに値する存在に思われているのかと言うと、まぁまったくの別の問題でもあるわけですけど。


しばしばメディア批判の言説として語られる、「メディアは政府の言いなりになっている!」も「メディアは政府批判できれば何をいいと思っている!」も、まぁある程度までは真実だと個人的にも思っているんですよね。
広くマスメディアを見渡せば、そうしたバカな人たちがどこか一部に見つけてしまえるのは間違いない。
二兎を追わんとする人たちの陥穽が生むモノ - maukitiの日記
ところが一見逆の方を向いているように見えるこうしたトレンドでも、実のところ「メディアは嘘つきだ!」という認識では一致してしまう。
両者が合流したことでより大きくなった不信感がどこに向かうかと言うと……。
そりゃ「反メディア」を掲げるトランプを支持しちゃう人たちが出てくるのも不思議じゃないよね。




Trends of Media Coverage on Human Papillomavirus Vaccination in Japanese Newspapers | Clinical Infectious Diseases | Oxford Academic
駆り立てるのは保身と危機感、画面に横たわるのは空の棚 - maukitiの日記
にしても、いったいデマを広めたのはだれだ - maukitiの日記
政治家の資質を判断するだけにとどまらず、『3・11』のような大災害でも、ワクチンでも、コロナでも。
正確なニュースを切実に欲する私たちは、権力から殺されないようにとメディアを応援することはできても、しかし、自身で自傷的行為を繰り返すのを止めることまではできないんですよ。
レミングスのように集団自殺をしながら、その一方で「権力に殺される!」と嘯く人たち。




ここで問題となるのは、ならば彼ら彼女らが再び市民の信頼を取り戻すことはできるか、という点であるわけで。
もちろんそこでトランプのような「反メディア」な政治家による扇動が要因なのも間違いないでしょう。
しかし、少なくとも、半分かそれ以上は彼ら自身の失態の結果であることも間違いない。


まぁ昔から「一度失った信頼を取り戻すのは難しい」と私たちのミクロな個人生活でもよく言われる教訓でもありますよね。
信頼性は上方硬直する。
多くの場合で、そこでの模範的解答としては「再び」長い時間をかけて信頼を取り戻すしかないと教科書的な解答になるわけですけども、
ところがぎっちょん、信頼性を取り戻そうとする行為が地道に続くのとまったく同様に、悪貨な人びとによるクソをそびえ立たせる行為も地道に続くことになる。
その永遠に続くだろう両者の成果の積み重ねを見て、私たちがどのように判断するかというと……。
信頼性は上方硬直する。(大事なことなので二回目)



一人の悪行によって、集団全体の評価が傷つけられてしまう。
いやあ、こちらもミクロな私たちが死ぬほどよく目にするクソみたいな人間社会の縮図であります。認知能力に限界のある私たちは、レッテル貼りだいすきだもんね。
だから我々は善きジャーナリストを守るためにも、個人の行いを見るべきである。
――ところがそれを認めるということは、逆説的に最初の話でもある「ジャーナリズムの独立性の担保」正当性に立ち戻ってしまう。一部のジャーナリストが真摯で誠実であるからといって、偏向し情報操作し誤報を垂れ流す悪いジャーナリストにもそれを認めるべきなのか?
もし認めるべきであるというならば、そのSN比が悪化していくのを一体どこまで許容するべきなのだろうか。
……現在の有り様は、許容できるラインなの?



ジャーナリズムが信頼性を取り戻す方法について。
その意味で言うと、政治家の方がずっと問題は単純なんですよね。少なくとも彼らにはきちんと――もちろん実際に改心しているかは別として―――信頼を取り戻す手続きはきちんと決まっているから。
選挙で再び勝つことで「禊は済んだ」と嘯くことのできる政治家よりも、それはずっと難しいことになるのは間違いない。


では、ジャーナリズムにそうした大多数が納得できるような手続きは存在しているの?
自分で勝手に決めた手続きを踏むことで、「禊は済んだ」と宣言すればそれでいいの?
本当にそれでいいと思っているの?



はたしてジャーナリストと名乗る彼ら彼女らは「メディアは嘘つきだ!」という声にどう応えるつもりなのでしょうね?
少なくとも僕にはまったく思いつかないなあ。
この難題こそ現代ジャーナリズムが抱える真の問題なのではないかと思います。
いやまぁそんな答えの出ない疑問に頭を悩ませるくらいならば、徹頭徹尾イエロージャーナリズムでいいというならば、それはそれで一つの生存戦略かもしれませんけど。実際そう考えている人たちの方が多そうだよね。
そうそう、バカな愚民どもを扇動して面白おかしく売文してればそれでいいのだ! なんて。
あるいは私たちにとってジャーナリズムの重要性が薄れ、ハードルが下がった時こそ信頼性を取り戻せるかもしれない。本末転倒ではありますけど。


みなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

*1:更には現代社会ではここに外国からの世論誘導も含まれる。