Twitterちゃんは沈黙したい

市場という名の神の要請だからね。しかたないね。


米ツイッター、政治広告を11月から禁止 トランプ陣営は反発 - BBCニュース
そしていつもの光景へ、という感じかなあ。

ドーシー氏は、インターネット広告は「民間の議論へのまったく新しい挑戦」を突きつけたと述べた。

その挑戦とは、「機械学習に基づいたメッセージ通信の最適化」、「マイクロターゲティング(個人の嗜好や行動パターンを把握し、効果的な戦略を構築する手法)」、「野放しの虚偽情報や深刻な嘘」だという。

「我々は、人々が我々のシステムを使って誤解を招く情報を拡散しないよう懸命に取り組んでいるが、誰かが自分の政治広告を強制的に人々にさらすために我々に広告料を支払っているのであれば、(中略)その人物は望み通り何でも言えてしまう!」。

ドーシー氏は、「政治広告がなくても、多くの社会運動で大規模な訴えを行える」と指摘し、禁止措置は現職の政府幹部に有利に働くのではないかとの主張に反論した。

米ツイッター、政治広告を11月から禁止 トランプ陣営は反発 - BBCニュース

これまでの新聞やラジオそしてテレビといったマスメディアと何が違うのか、と聞かれるとまぁやっぱりそういう話にはなるのは理解できます。
個人的には従来のそれとあまり変わらない(金の量が声の大きさを決めることには違いがない)とは思ってるんですが、民主主義政治にとっての「新しい挑戦」というのは確かに上記のようなお話なのでしょう。


まぁ本音としては「これ以上政治的なゴタゴタに巻き込まれたくない」というとってもシンプルで身も蓋もない論理が裏にあることがよく解るお話かなあと。より広範な言論のプラットフォームを目指す以上避けられないことではありますけど。
まぁそりゃそうだよね。上記記事でも指摘されているように共和党にしろ民主党にしろ、(意図があるにしろないにしろ)一方に有利なように変更すれば、必ずもう一方の側から批判されるのは目に見えているわけで。そしてまた〇〇寄りだとか言われてしまう。
――であればこそ、慎重で、狡猾で、周到な企業たちであればあるほど、そうした政治的党派な争いからは一歩引いて中立的なポジションを採ることこそ唯一無二の成功戦略でもあり続けてきたわけだし。
神の見えざる手は市場の安定性だけでなく、政治的意見の空白性をも確保する。
ブリザードが香港デモへの対処からスポンサーを失う - GIGAZINE
香港問題でヘマをしたブリザードの対応なんてその典型でしょう。香港と北京どちらに配慮しようとも、ああして大騒ぎになってしまった時点で、「色」がついてしまった時点で彼らは負けている。


それをお金で黙りますか? - maukitiの日記
まぁ逆説的にこうした構図=市場の論理=慎み深い大人の態度こそが、政治的空白とその議論の空白を呼び、人びとが公共や道徳について議論を避けるようになったとサンデル先生は仰っているわけですけど。
民主主義先進国たちが多かれ少なかれほとんどどこでも経験している、私たちの低投票率=『政治離れ』の問題の根幹の一つとして。
政治について話さない方がベターな態度である、というのが一般的であるならみんなそうするのも当たり前だよね。




さて置き、個人的にこの「政治広告」なお話で気になるのは、その政治の射程とは一体どの範囲なのか? という所なんですよね。

今回の決定は、「候補者に関する宣伝の禁止」と「政策に関する宣伝の禁止」が主で、候補者や政党、政策自体に関係がない「投票自体を促す広告」は例外として扱われる予定です。そういった例外などを明記した詳細は、2019年11月15日に発表される予定とのこと。11月15日の発表を元に、11月22日にポリシーを改訂、政治的広告の全面禁止が実行されます。

Twitterが「政治的な広告の全面禁止」を発表 - GIGAZINE
  • グレタさんのような環境保護メッセージは?
  • 戦争反対の訴えは?
  • 貧困層への支援の訴えは?
  • 難民支援の訴えは?
  • 民主主義擁護のメッセージは?
  • 表現や言論の自由を訴えるメッセージは?


『香港デモ』のように特定できる固有名詞を出すとアウトなのはまぁ理解できます。ただ、ならば単に『民主主義制度』『一国二制度』といった価値観の尊重を求める広告は政治宣伝に含まれるのか? というのは難しい問題だと思うんですよね。
それこそ(自称)リベラルな僕には、普段ブラウジングしていて、ターゲッティングされているのか環境保護や難民支援の賛同などの広告をちょくちょく見るわけで。これだってほとんど政治的メッセージであるはずでしょう。
環境保護や人道的メッセージが、政府の『政策』ひいては『政治』と無関係だなんて言えるわけがない。
例えばシリアやイラク難民問題への関与(救済)を訴えるメッセージは、同様にそれを訴えている政党の広告と紙一重だし、あるいはそうした被害や弾圧の実態をより残酷に訴えるネガティブキャンペーンとしても。
政府が難民支援をするということは、必然的に公的資金の、そしてつまり私たちの税金の使い道について、それこそ政策議論の中心テーマの一つでもある。



ということで「政治的メッセージの禁止」というのは一見単純なルールに見えて、まぁ一周回って現代社会に生きる私たちに深淵な問いを投げかけているとも思うんですよね。
――私たちにとって政治とは何か?
――逆説的にそれは社会的動物である私たちにとって、ならば政治ではないメッセージとは何か? という問いでもある。
いやまあ「何が政治的広告か否かは私たちが決める!」クッソ愉快でハラショーな唯我独尊的解答をTwitterの中の人はしてくれるかもしれませんけど。
実際に、今の凍結基準なんかも概ねそうなっているしね。


そうそう、政治的メッセージは効果的過ぎるから排除すべきだよね!
そうそう、宇崎ちゃんは性的だから公共から排除すべきだよね!


みなさんはいかがお考えでしょうか?