マクロな広報とミクロな納得のあいだ

それで「安全」だといわれても、決して「安心」しない私たち。






リプが地獄というので興味本位で見に行ったらリプが地獄でした。
でもまぁソシャゲ運営の公式アカウントなんかではお馴染みの光景ではあるよね。一体なぜ多くの私たちは公式にクソリプをおくってしまうのか。


ともあれ、しかしこれはクソリプを送る私たち、という意味に限らずまぁ普遍的な光景だとも思うんですよね。
「それをすれば(概ね)社会は安全である」という専門家の正論に対して、「でも100%じゃないじゃないか!」と反発してしまう個人の私たち。
何処かにあると信じる完全解答を追い求めてしまう人びと。
例えばニセ医療に走ってしまう人たちの心理状況ってまぁそういう人たちでもあるのでしょう。


より効果の高い、なんなら絶対安全な「銀の弾丸」「魔法の杖」を求めてしまう私たち。
まぁ『3・11』でも散々見た光景だよねえ。




であればこそ、「正しく恐れよ」という事が求められるワケでもありますが、しかし感情で生きる私たちにそんなこと言われたって困っちゃうよね。
不安なもんは不安なんや! 
――しかしそんな私たちの不安こそ、古今東西の社会にカオスをもたらしてきた種でもある。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」が逆回転するフランス - maukitiの日記
「人身御供」「人心安定」のための仏空爆 - maukitiの日記
「不安忌避文化」の果てにあるもの - maukitiの日記

この辺「社会と恐怖」なお話は、やっぱり何度か書いてきた定番の日記ネタではあります。

かくしてやってくるのは、潔癖症のような「不安忌避文化」であり、その文化が更に生むモノと言えば「カネを注ぎ込む文化」でもあります。
昔から言われているお話でもありますが、資本主義社会に生きる私たちが大小様々な不安を解決しようとすれば、必要コストほとんどイコールでカネを使う以外にないわけですよ。それはミクロな個人から、マクロな政府までまったく変わらない大原則でもあります。そしてそのコスト比は経済学の基礎にあるように、徐々に非効率へと逓減していく。平時にはそれまでは最も「経済的に」合理性のある点で実現していたそれが、逃れられない感情によって更なる安全を求めることで生まれる更なる支出拡大。

「不安忌避文化」の果てにあるもの - maukitiの日記

ということで最初の厚生労働省のコメントはまぁマトモなことを言っているとは思うんですよね。
手洗いうがいの徹底・不要不急の外出を控える、こそが少なくともマクロな統計上の数字を最もよくすることは間違いない。
だってそれらの対応はほぼゼロコストでできるんだから。
――もちろんそれが「100%」の安全をもたらすわけでは絶対にないし、ついでに言うと今回の事態に際しての彼ら彼女らの対応に瑕疵がなかったかというと、まぁ某ダイヤモンド・プリンセスの騒動を見ればわかる通りそんなことも絶対にないんですけど。


そのコストが安ければ安いほど広く普及することができる、私たち人間社会における覆しようのない物理法則に正しく則っている。
まさに公衆衛生である。
マクロな集団への取り組みとしては、非の打ち所もなく、正しい。


だからといって、こうすれば一番確実に感染(数字)の暴走を抑えられるよといわれても、まぁミクロな私たち自身の生活の安心を確保できるわけでもない。
かくして私たちは「個人の」「家族の」守るためによりよい方法があるのではないかと奔走することになると。
私たちはなにも不合理な解決策を求めているのではなく、むしろミクロとしては合理的だからこそクソリプを送る。



その職務と使命に則った「マクロに向けた取り組み」を広報するからこそ、ミクロな「安心」を求める私たちからクソリプを頂いてしまう構図。
いやあ愉快で、滑稽で、だからこそ悲しいお話だよね。


「社会の」健康を守ろうとする人たちと、「自分と家族の」健康を守る手段を求める人びとのすれ違いについて。


みなさんはいかがお考えでしょうか?