トルドー「あなたの神である『表現の自由』を試してはならない」

でも彼のように強くない、平凡で弱い私たちは他者の預言者を使って試すのをやめられない。




カナダ首相「表現の自由には限度がある」 仏の風刺画事件受け 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
更に炎上が広がっているムハマンド風刺とその殺害のお話。

トルドー氏はこの日、前日に臨んだ欧州連合EU)首脳会議での発言と同様、フランスでこのところ相次いでいる「非常に凄惨(せいさん)な」攻撃を非難。一方で、仏風刺週刊紙シャルリー・エブド(Charlie Hebdo)が掲載したように、イスラム教の預言者ムハンマド(Prophet Mohammed)の風刺画を見せる権利について聞かれると、「表現の自由は常に擁護される」としながらも、「だが、表現の自由に限度がないわけではない」と主張。

 さらに、「他者を尊重して行動し、同じ星に暮らし社会を共有する人々を恣意的あるいは不必要に傷つけないよう努めるべきだ」「例えば、混雑した映画館で(火事でもないのに)火事だと叫ぶ権利は誰にもない。常に限度がある」と述べた。

カナダ首相「表現の自由には限度がある」 仏の風刺画事件受け 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

まぁ正論ではありますし、表現の自由支持者である僕もかなりの部分で同意する所ではあります。
結局のところ、このトルドーさんのお話って聖書の「荒野の誘惑」と同じ構図になるとは個人的には思っているんですよね。

主なるあなたの神を試みてはならない。

表現の自由があるから(許されるから)と、他者の信仰をギリギリセウトなラインを安易に狙って侮蔑するべきではない。
当たり前の話ではありますけども、別にセーフにあろうがそのラインに近づけば近づくほど反発は大きくなるのは当然なんだから。
「ラインを越えてないからセーフだろう!」と開き直ってしまうのはあんまり筋がよろしくないんじゃないかと。



個人的には某あいちトリエンナーレも大体そんなポジションではありましたけど、平和で牧歌的な本邦内部とは違い、現在進行形でイスラム価値観との相克がおきているフランスにおいては、最後の火事の例え話の構図はあまりフェアではないと思うんですよね。
現状をより正確に表現するならば、

「例えば、混雑した映画館で(火事でもないものの、焦げ臭い「感じが」する、煙が見えたような「気がする」)というときに火事だと叫ぶ権利があるだろうか?」

もしかしたら、ただの勘違いかもしれないし、あるいはただの枯れ尾花かもしれない。しかし、もしかしたら、本当に火事かもしれない。
どちらにしても火事じゃないかと(おそらく本人たちは心底善意から)本気でそう思っている人たちが居るのもおそらく間違いないと思うんですよね。
そしてその上で「火事だ!」と叫ぶことの是非がここで問われているわけでしょう。


不安に駆られた人間たちが火事だと叫ぶことの是非について。


これまでのように(ある意味で余裕を見せつけるような)穏健的ポジションを採ることができていたのは、神ならぬ『表現の自由』の存在を絶対的に確信していた、という大前提があったわけでしょう。
まさに聖書の中でイエスがそうしているように。
ところが凡愚たる私たちは、余裕がなくなればなくなるほど神の存在を確かめようとしてしまう=自由の存在を再確認しなければ不安になってくる。故に聖書でも「誘惑する悪魔」はそうした手法を使っているわけでしょう。


ここで面白い――といっては不謹慎ですけども、そもそもそうした不安の根源って「(これまでそうしたきたように)表現の自由側が配慮するように、イスラムの側もこちらに同じく配慮してくれるだろうか」という当然の懸念を背景にしているわけですよ。
ところが、フランスでこうしてテロや殺害事件が繰り返されることで、懸念通りの展開によって彼らの不安はより強くなっている。
つまり過激イスラムの人たちが殺害に走れば走るほど、彼らはより表現の自由という神の存在を再確認しようとする。
――だからこの構図って、フランスもイスラムの側も、どちらも自己成就予言の面も大きいんですよね。
ムハマンドを風刺すればそうなるのは当然なのに。
テロを繰り返せばフランスがそういう反応をするのは当然なのに。
かくして数々のイスラムテロを経た彼らは、最早精神的に余裕が無くなりつつあり、フランス的価値観の存在を「敢えて」確かめずにはいられなくなっている。





かの預言者のような選ばれし存在ではない我々は、他者の預言者を風刺してその存在を再確認せずにはいられない。
いやあ私たち人間って難儀な存在よね。



神の存在を信仰しきれない彼らが弱いからいけないのだ、なんて部外者のポジションから簡単に批判することは僕はできないかなあ。
不安感から神が許される限界をつい試してしまう弱き私たちについて。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

 
 

MWO(Multipolar world order)にようこそ!

我々の信じてきた『普遍的価値観』の敗北でもあるんだよね、という悲しいお話。



香港の民主活動家3人、国安法違反で逮捕 米国への亡命計画か - BBCニュース
米総領事館、香港の活動家4人の政治亡命を拒絶 米中対立を避ける思惑か - 毎日新聞
ということでアメリカからも断られ逮捕されてしまったそうで。

香港の英字紙サウスチャイナ・モーニング・ポストによると、鍾氏は27日朝、米総領事館の向かいにあるコーヒーショップにいたところを逮捕された。

総領事館近くから撮影された映像では、カジュアルな服を着た数人に鍾氏が連れ去られる様子が確認できる。

学生動源によると、鍾氏ら同団体の元メンバー3人が警察に拘束された。

警察は逮捕について、進行中の捜査の一環だとした。

真偽不明の複数報道によると、逮捕から数時間後に活動家4人が米総領事館に亡命を求めて駆け込んだものの、追い返されたという。

総領事館側は、複数の通信社からの問い合わせに答えていない。

香港の民主活動家3人、国安法違反で逮捕 米国への亡命計画か - BBCニュース

まぁアメリカも今クッソ忙しいからしかたないよね。大統領選挙も終盤でそれどこではないし。
そもそもこれまでだってウイグルのことや香港デモの横暴など散々見ていながら、口で非難することはできても実質的な行動としては――皮肉にも経済制裁に踏み切ったトランプのアメリカ以外は――ほとんど何もしてこなかったのだから。
「米中対立を避ける思惑か」と言ったってねえ。そもそも日本だって見捨てているのには変わりないのにね。かといって決定的に対立されても困るし。
今更ミクロな個人である彼らを見捨てたところで何の腹が痛むことがあろうか。
まぁそれと同時に普遍的人権という概念まで見捨ててもいるんですけど。



この辺の「多極化世界の残酷な現実」というのは割と関心領域ど真ん中でもあるので、これまで日記でも散々書いてきたお話ではあるんですよね。
嵐作戦ふたたび? - maukitiの日記
「なぜアメリカは自分たちのことを軽視するのか」という言葉の裏側の変化 - maukitiの日記
パクスアメリカーナ以後の世界にこんにちは - maukitiの日記
残酷な多極化世界のテーゼ - maukitiの日記
アフガニスタンイラク戦争から見え始め、ついにシリアとクリミアでは決定的になった多極化世界の傾向について。

おそらく私たちが生きている間にという意味で「やがて」やってくるだろう多極化世界の可能性について。


そんな未来について、日本でも楽観的な人たちが「横暴なアメリカではなくなる」的な事をいう人は少なくなかったわけですけども、まぁもちろん平和な多極化世界がやってくる可能性だってあるわけですよ。
――例えば超大国の影響力がなくなっても、国際関係上の揉め事を条約や国際法に則って解決することができるなら。
もし、そうならなければ……多極化世界はきわめて残酷な世界を生むことになる。そこでやってくるのは、複数地域でそれぞれに政治的経済的大国=極がそれぞれに「地域の警察官」「地域の裁判官」となる世界であります。それ以外の弱国は従うか、あるいはどこかの援助を受けて反抗するしかない。
何が正義で何がそうではないか――まさに冷戦後あったアメリカのように――該当地域の強国がそれぞれに決める。その意味で言えば、例えばヨーロッパや北米辺りでは概ね今と変わらない世界が維持されることになるでしょう。その支配者が変わらない以上、彼らには世界が多極化しようがそこまで致命的な影響はないから。


しかしそれ以外の地域では、該当地域の最強国が何が黒で何が白かを決めるようになる。

残酷な多極化世界のテーゼ - maukitiの日記

上記の香港でも、あるいはウイグルも、こうした構図の下に我々は彼らの人権問題に(口は出せても)事実上何もできないわけでしょう。
だってそれは大国中国という極の内部の話でしかないのだから。
部外者である我々は口を開くことはできても、実際の行動としては沈黙することしかない。
多極化世界秩序にようこそ!





さて置き、以前の日記をコピペするだけでは芸がないので関連して適当なお話も。
そもそもこの『人権』を大義名分・外交カードにする手法が生まれたのって、連合国――というよりはほぼアメリカが主導して――ナチスドイツの戦争犯罪を明確に裁くために後から生み出したモノなんですよね。
本邦では当事者だったということもあって極東裁判の問題点は割とよく知られたお話でもありますけど、事後遡及的に「平和に対する罪」や「人道に対する罪」を認めた目的って、日本というよりはまずナチスドイツが主眼にあったわけで。
彼らは人権問題を生み出し、そしてそれを裁判で利用した。


ところがぎっちょん、あれから70年経った今では「中国と決定的に対立しない為に」そんな人権問題を敢えて無視しようとするアメリカ。
人権とはいったい……うごごご!!
まぁ戦争をしない為なのだから、多少人権を無視したってしかたないよね。
次の戦争が終わったらまた「平和に対する罪」や「人道に対する罪」で相手を裁いちゃえばいいもんね。
今度は事後遡及って言われる心配もないし!(だったら既にその概念がある今は何をしているのかという不作為問題はさて置く)




しかし『人権』という概念の成り立ちと、そしてその恣意的過ぎる運用方法がこうして現実の光景として繰り広げられると、人権とは普遍的価値観だと信じてきた私たちリベラルは立つ瀬がないよねえ。
結局それは現実政治の道具でしか機能していないだろう、という批判にマトモに応えることができない。


かくして、多極化世界あるいは二極化世界が世界に現出することで、私たちが信奉していた『普遍的』とされる多くのリベラルな価値観の射程範囲までも明らかになりつつある。
普遍的(笑)


だからこそ、以前の多極化ネタ日記でも書いてきたようにリベラルな僕としてはこんなことになってしまう位ならアメリカ一極の方がまだマシだろう、というポジションではあったんですよね。
だって多極化にしろ二極化にしろ、そうした世界というのはつまるところ「自分以外の極はどうなってもいい」という普遍的価値観とはかけ離れた残酷で弱肉強食な世界になってしまう可能性が高いのだから。
無政府状態な国際関係という常態に。
まさにアメリカというだけでなく、私たち日本も同罪として「中国と戦争になる位ならそれは無視した方がいい」と合理的に判断しているように。
やっぱりキッシンジャー先生の言うようなリアリズムこそが国際関係を動かしてしまうのか。


Multipolar world orderあるいはこの先に待っているかもしれないBipolar world orderについて。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

個人主義のおわり?

気候変動やコロナ危機は我々に集団主義を思い出させてくれるだろうか。



気候危機とグレタと資本主義 若き経済思想家が説く新しい「脱成長」論 | 欧州ニュースアラカルト | 八田浩輔 | 毎日新聞「政治プレミア」
「脱成長」を目指すのかはともかくとして、しかし現状認識としてはかなり近い所にあるかなあ。

 ――新型コロナウイルスで打撃を受けた経済の再生と気候変動問題の両立を目指す「グリーン・リカバリー」(緑の復興)の動きが欧州を中心に広がっています。しかし、新刊では持続可能な社会への移行をビジネスチャンスとみなす「緑の経済成長」戦略について批判の対象にされています。なぜですか。

 ◆経済成長を続ければ技術が発展し、イノベーションが促進され、魔法のような技術が現れて、私たちは自らの生活を特段大きく変えることなく、あらゆる問題を解決できる――。それは幻想です。

 気候変動を安全と思われる許容範囲にとどめるには、世界の二酸化炭素の排出量を2030年までに半分にして、50年までには実質ゼロにしなければいけません。今までの経済成長が化石燃料に依存してきたことを考えれば、あと数十年ほどで、経済成長を続けながら二酸化炭素排出の絶対量を減らす「デカップリング」(切り離し)が十分に実現できるとは思えません。

気候危機とグレタと資本主義 若き経済思想家が説く新しい「脱成長」論 | 欧州ニュースアラカルト | 八田浩輔 | 毎日新聞「政治プレミア」

上記著者は否定的に見ていますけども、個人的にはデカップリングが実現できるかというと、まぁそれなりに実現性はあると思っているんですよね。
――私たちが『個人の幸福追求』という大前提を捨てることができれば。
そもそも何で資本主義が資源枯渇や環境破壊を招いてしまうかって、そりゃ我々が資本主義を通じて*1無限に幸福を追求しようとするからでしょう。
資本主義は手段であって目的ではない。
啓蒙思想から生まれ欧米的価値観と共に我々に深く根付いた個人主義は、集団ではなく個人の幸福追求を最大化させる、そんな権利を至上としてしまうからこそ負の外部性も大きくなっていってしまうわけで。


つまり、私たちが自身の幸福追求を二の次にさえすれば、デカップリングを実現できる可能性はある。
かんたんなことだよね!


字幕:グレタさんがEUに訴え、温室効果ガス削減に「できる限り手を尽くして」 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
個人的なポジションとして、いつもの野次馬根性を越えて「グレタ・トゥンベリさん」ネタをちょくちょく日記にしているのは、そうした背景があるわけですよ。
彼女が「変えろ!」と怒っていることってただ環境保護運動という面を越えて、現代世界に暮らす我々の大前提としてある個人主義的な『幸福追求』をやめろと言っていることに等しいから。
彼女に反発する人たちは少なくありませんけども、でも実はそうした少女如きにと怒る権威主義なオジサンがいかにも好きそうな集団主義の論理こそを彼女は求めているんですよね。
彼女を批判する人たちだけでなく、支持する人たちもその先にある集団主義な社会像についてあんまり解ってなさそうではありますけど。


より大きな社会の利益を実現するために、個人の幸福追求の主要手段であった資本主義を管理する世界へ。
資本主義の活動は、集産主義的に管理されるべきである。
むしろ、自分の共同体のために協力しないなんて非国民なのでは???
個人主義のおわり。






ここで面白い偶然というべきか、まさに今我々が直面している『コロナ危機』ってそうした集団主義的な論理を私たちに強要する面がかなりある、という点だと思うんですよね。
「マスク着用など行動変化を嫌う個人主義的なヨーロッパ」っていうのも、まぁそういう傾向から導かれているわけで。
何故個人の幸福=自由な行動やマスク無しの快適な生活を諦めてまで、集団の利益を優先させなければならないのだ、なんて。
欧州の都市から再び人が消えた 新型ウイルスで夜間外出禁止相次ぐ - BBCニュース
まぁそれで痛い目に遭いまくっているわけですけど。
その意味でいうと、単にコロナによる経済危機で二酸化炭素排出が縮小されたという直接的な面だけでなく、個人主義よりも集団主義が優先されるようになりつつある、という点でこそコロナはグレタさんにとっての福音になっていると思うんですよね。


コロナによって、我々は否応なく集団主義の論理を思い出しつつある。



このまま個人の幸福追求を第一とする個人主義が終わり、我々は「個人よりも集団の目的を優先する」集団主義への道程を歩むことになるのだろうか?
――グレタさんが言っていることって(解っているのかいないのか本人は直接口には出しませんけど)結局そういうことなんですよね。
そしてそれは、単純に環境運動という枠組みを超えた、我々の文化や社会や哲学についての重要なテーマでもある。




気候変動やコロナを経た我々は「社会のために」という大目標達成の為に、資本主義による個人の幸福追求は脇において置くべきなのだろうか?
そしてそれは少なくとも現状において、ある程度まで合理的であるという評価を下す他ないように見える。
まぁ割と私たち日本人には受け入れやすい論理ではあるかもしれないよね。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

 
 

*1:もちろん「資本主義を通じずに」それを追求する道もあるんだけれども、より中立的な価値観として「カネこそすべて」という道を選んだ現代社会ではそれはかなりむつかしくなっている。この辺を書くと日記が三倍以上に長くなってしまうのでここは割愛。

通常日記

手抜き日記。
 

  • GoToトラベル、終了は観光需要など勘案し判断=官房長官 | ロイター
    • 個人的にGotoはあまり上手くいかないと思ってたんですが、周囲の人たち含め思ったより使いまくってて、業界刺激策としては割と成功していると評価するしかないなあと。ごめんなさい。
    • これは典型的な「自分の価値感が主流だと思いこむ」ことによる失敗だなあと。そりゃそうだよね。コロナでここぞとばかりに引きこもってアニメ見ながらゲームばかりしているオッサンと世間が同じ行動様式だと考える方が間違っているよね。そう、今日はオクトパストラベラーの配信日!

 

 

 

 

 

 

 

 


  • 「もう一つ消えれば…我が党の時代」立憲・安住氏が発言:朝日新聞デジタル
    • 旧民主党の失敗は(社民党などとの)野合のせいだったという歴史観を前提にすると、それを口にしてしまう理由は解るかなあ。その挽回の機会=我々の時代がついにやってきたとついつい口が滑っちゃったんだよね。
    • でもその大前提って間違っていると思うよ。その意味で二重の意味で失言だと思ってます。間違った前提に基づいて間違ったことを言っている。マイナスにマイナスなんだから実質セーフではあるかもしれない。

 

 

 
 

核兵器禁止条約を進めるためのたった一つのさえたやり方

リスクの帳尻を合わせよ。


核禁条約、不支持の日本に失望 ICANフィン事務局長[核といのちを考える]:朝日新聞デジタル
さっすが『歴史の正しい側』にいるICANフィン事務局長、話がわかるッ!

(原爆を投下された)日本の経験を考えると、日本が核兵器を合法のままにしようとしていることに失望している。日本は核兵器がどういうものかをよく知っている。条約を支持しないことで、政府は同じことが再び起きるのを許そうとしている。

 日本の人々が参加を強く支持していることは知っている。しかし、条約に加入しないならば選挙で選ばないと声を上げるなど、政府に要求する必要があると思う。

核禁条約、不支持の日本に失望 ICANフィン事務局長[核といのちを考える]:朝日新聞デジタル

そうだよね。被害者なのにその罪を責めないなんて間違ってるし、それ自体が犯罪を容認しているのも同然だもんね!
――個人相手にこうした趣旨の発言を行ったら、まず間違いなくザ・セカンドレイプって言われると思いますけども。
「日本という国家ならセーフ!」という暗黙の前提がある辺りに、上記のような『歴史の正しい側』からのモノを言っている傲慢さが透けて見えてとってもハラショーなお話だとは思ってます。
被害者なのに声をあげないなんて許されないでしょ(笑) なんて。


まぁ個人的なポジションとしては、本邦でも学術会議問題で揺れているような『学問の知見』こそを重要視するところではあるので、所謂「核抑止」理論には賛成するしかない所ではあるんですよね。
少なくとも日本に原爆が落とされて以来、戦争で使われないままやってきたのは間違いないのだから。
その『異常な愛情』は概ね機能してきたと見なす他ない。
となると、あやまちを繰り返さない為に我々がすべきことと言えば……。





さて置き本題。
ここで面白いというか皮肉というか、さもありなんと言うべきか、結局この基本的構図としては賛成しているのってほとんどそのまま『核の傘』とは無縁な国々なんですよね。*1
つまるところ、核の脅威に比較的さらされていない、幸運な国々。
故に彼らはその立場から、これ以上ない程文字通りの意味で「後顧の憂いなく」その悪魔の兵器の違法化を訴えることができる。
しかし現実に核ミサイルの標的入っている私たちは絶対にそうではないでしょう。
後顧の憂いはありまくっている。
かくして『核』を現実の脅威として見ている人たちこそ核の傘を頼り故に禁止条約に反対し、そうではない人たちは賛成しているという、見事にねじれた愉快な構図が生まれているわけで。


NPT=核不拡散条約が散々不平等条約だって指摘されてきましたけど、これだって似たようなモノだよねえ。
フィン事務局長だってそんなの解っているはずなのに、そこに言及しないのはフェアじゃないよね。いやまぁこれまでのNPTの核保有国の欺瞞を反映しているのだと言われるとぐうの音も出ませんけど。




だから、このすばらしいおはなしの賛否を分けているのって単純にやる気や善意の問題じゃないんですよ。
核兵器禁止条約 - Wikipedia
賛成反対の色分けを見れば簡単に理解できるように「当事者」と「そうではない人たち」というだけ。
その両者のポジションを分けているのは、リスクの多寡、という身も蓋もない事実でしかない。
もちろん一度全面的核戦争が始まってしまえば宇宙船地球号に同乗している我々は誰もが無関係ではないと正論を言う事はできるでしょう。
しかし、そんなキレイ事や建前ではない現実問題として、どちらの方がリスクが大きいかというとそんなの言うまでもないよねえ。


私たちがミクロな個人的生活でも嫌と言う程目にしてうんざりしているように、誰だって自分でリスクを被らないならいくらでも勝手なことを言えてしまうのだから。
わかるわかる~町にやってきたクマはかわいそうだから助けてあげるべきだもんね!
銃社会は間違っているので、恐怖から銃を買うなんてバカげているよね!
独裁国家は間違っているので現地市民はもっと反抗すべきだよね!




ということでこの『核兵器禁止条約』をより進める解決策って、話としては単純と言えば単純なんですよね。
両者のリスクをより平等に近づければいいだけ。
その批准によるリスクの多寡が同じではないからこそ、反対する私たちは「問題に無関係な他人にオールを任せたくない」と拒否しているわけで。
核禁止条約を進める為にまずは核の脅威を減らすことから始めよう!
核の傘の下に入る国が減れば減るほど条約に賛成するのはまず間違いないんだから。
禁止の為にまずは核軍縮! やっぱりNPTがナンバーワン!
でもそれが上手くいっていないから核禁条約が生まれてきたわけで……うーん、鶏が先か、卵が先か。
まぁ逆説的に、核兵器の数=標的になる人たちが増えれば増えるほど反対は増えていくことになるんですけど。


あるいはそんな増大の果てにあるだろう世界観として、ワンチャン誰もが核ミサイルの標的になることで禁止条約が進む逆転ホームランが生まれるかもしれない。
それはそれで確かにリスクの帳尻を釣り合っているもんね。
アメリカとロシアと中国が協力して「全世界の首都に核ミサイルの標的を合わせます」と宣言すれば誰もがリスクは平等になるね!(小並感)(穢れた聖杯的思考)
……いやまぁ今の賛成国から――まさに今『核の傘』の下にいる私たちがそうしているように――リスクが大きいと拒否に回ってしまうかもしれませんけど。






核ミサイルの標的となっている私たちと、そうではない人たちのリスクを釣り合わせる方法について。
例えば『核の傘』から離れた国が核兵器で脅迫されたら、一体誰が守ってくれるの???
(もちろんこちらも100%絶対だとは言えない)同盟関係による核の傘よりも、どうすればより安心感を提供できるの???
フィンさんには道義性云々よりもこの点こそを正面からちゃんと語ってほしいなあ。たったそれだけで賛成反対で分断される国々を一つにできるのだから。
それをやればもうノーベル平和賞ものだよね!()


結局NPTの時の同じようにその不平等性が問題になってしまうのは皮肉なお話だなあと思います。
それ故に前に進めない私たち。
持つ者と持たざる者という人類普遍のお話だと言ってしまうと身も蓋もありませんけど。


みなさんはいかがお考えでしょうか?

*1:逆説的に『核の傘』に入っていながら、それを拒否する国こそ真に価値ある=実質的な賛成者の数でもある。

「知ったこっちゃないね!」戦争を容認化させるソーシャルメディア

情報溢れる現代社会でこそ、より可視化される私たちの不作為。





SNSで揺らぐ平和意識 戦争容認、簡単に「いいね」  :日本経済新聞
なんか割と盛り上がってたみんな大好きヒトラー談義。は~なるほど~。

「いくらユダヤ人を殺したと言われていても、ヒトラーにも人の心があった」。6月、ユダヤ人の大量虐殺を命じたヒトラーが、実は優しい心を持っていたなどとする文章が、ヒトラーと少女が笑顔で写った写真とともにツイッターに投稿された。

ヒトラーさんへの好感度が上がった」「ユダヤ人迫害には別の黒幕がいたのかな」などと同調する反応も多く、一連の投稿に計1万3千近い「いいね」が付いた。

投稿したのは東北在住の10代男性。「ヒトラー=悪」という常識に疑問を投げかけたかったという。元ネタになった記事はニュースサイトで読んだといい「戦争から75年。今までの視点をずらし、当時の人物を評価していくことが重要ではないか」と話す。

専門家は「安易で短絡的だ」と手厳しい。「大衆が支えたナチズム体制下の出来事を個人的で心温まる物語に矮小(わいしょう)化している」と批判するのは衣笠太朗秀明大助教(ドイツ・ポーランド近現代史)。「ごく一部の事例を普遍化して再評価を促す非常に危険な投稿だ」と語る。

SNSで揺らぐ平和意識 戦争容認、簡単に「いいね」  :日本経済新聞

ぼくは、す~ぐ『ヒトラー』という言葉を使って相手を批判しようとする、「安易で短絡的な」議論方法がこうしたヒトラー評価見直し()をしてしまうバカな空気を生んでしまったと思うよ。


現代社会における民主主義政治家は、どうやっても彼と同じレベルの所業を行うことなんて不可能でしょう。
――それは単純に僕の政治家への信頼というよりは、幾ら歴史を終わらせられなかった現代に生きる我々大衆でもさすがにそこまでバカなではさせない、という大衆の知性への最低限の信頼感でもあります。


こうしたヒトラー議論でしばしば引用される、有名な『ゴドウィンの法則』のそもそもの意味もそういうことなんですよね。
別に誰かをヒトラー呼ばわりすること自体が悪いのではなく、しばしば、結果としてヒトラーの評価を相対的に向上させてしまうから。

ゴドウィンの法則は誤謬の告発を旨としているものではなく、不適切で誇張された対比の発生率を下げるためのミーム的な道具として作られた。ゴドウィンは「あえて自然法則や数学法則のような表現にしてはいるが、この法則は常に修辞上・教育上の目的のためのものだ。要するに自分は、誰かを安易にヒトラーになぞらえる軽薄な連中に、もう少し真面目にホロコーストのことを考えてほしかったのだ」と書いている[7]。

ゴドウィンの法則 - Wikipedia

ヒトラーの悪行について真面目に考えていない」ことの証左にしかなっていない――故にクソである。
本邦でも散々安倍前首相が、安易で、短絡的で、矮小な人たちが何も考えずにヒトラー呼ばわりしていましたけども、ああした言説こそが安倍さんの様々な悪行――もちろんそれが無いとは絶対に言えない――と同じレベルでヒトラーのそれを見るような空気を生むようになったんじゃないかと。
んなもん同じレベルにあるはずないのにね。
安易で短絡的にアベさんをヒトラーと呼んでいた人たちこそ、結果としてヒトラーの罪を矮小化し評価見直しの空気を生んでいる。
まぁしかたないよね。そうした迂遠な副作用なんてどうでもよくて、今この瞬間に権力に立ち向かっている自分たちが気持ちよくなりたいだけなんだもんね。






ともあれ、まぁ相手の主張を批判するだけじゃ生産性が無いので、関連してではなぜ「戦争容認」という空気が生まれるのかというと、最近のアゼルバイジャンアルメニアの日記でもよく言及している「(国際社会=)我々の不作為」がそれをしているのではないでしょうか。
看過されるシリアの犠牲の大きさは、同時に私たち自身の平和と安寧の重みである - maukitiの日記
アジアの平和(笑) - maukitiの日記
「戦争忌避という良心が、また新たな戦争を呼ぶ」お馴染みの悲劇 - maukitiの日記
パリで死ぬ命は、シリアで死ぬ命よりも1000倍くらいは重い - maukitiの日記
無抵抗主義者が戦争への道を舗装するとき - maukitiの日記
「国際社会が黙ってないぜ!」の顛末 2020Remix - maukitiの日記
当日記の頻出テーマでありシリアの時からしつこく書いてきましたけども、自分たちさえ平和であればいい、というとても一国主義者でナショナリストらしい主張を持っている人たちは別にいいんですよ。
「自分たちさえ平和を享受できればそれでいい!」
それはそれで勘案すべき一つの価値観でもある。実際に私たち日本人が模範としてきたヨーロッパも、ユーゴスラビアから始まりシリアやリビアなど、何度も痛い目に遭い続けてきたわけだしね。
戦争をするのは簡単でも平和を取り戻すことはひたすら難しい。
だったら自分たちの平和さえ維持できればそれでいいというのは、やっぱり合理的だというしかない。


でも、曲がりなりにもリベラルな立場から『世界平和』を訴えるのであれば、そこで「他者の戦争も許さない」という態度が重要であるわけでしょう。
――で、実際に、私たちは、他者の戦争に対して、それをしているの???
その意味で言えば、確かに「アメリカの戦争」にも反対し抗議していた人たちは一貫性があると評価するしかない。
一昔前にイラクアフガニスタンまで行ってそれをしていた人たちは、賛成するかはともかく、平和運動家としてとても誠実ではあると思うんですよね。


その一方で、私たち日本社会は一体どのような行動を採ったのだろうか? 
現地で平和を乱す現状打破主義者たちに、どのような強い態度を採るべきだと政治家に要求したのだろうか?

  • シリアでは?
  • クリミアでは?
  • イエメンでは?
  • そして、たった今まさに戦争をしているナゴルノカラバフでは?

少なくとも僕が見てきた世界線では「余計なことにクビを突っ込むな!」という政治的意見が主流だったように思えるなあ。
そうだよね。自分たちが平和でさえあればいいもんね。


……確かに私たち日本人の主流意見としては「(他者の)戦争を容認している」と言うしかない。
皮肉にもより世界が狭くなった結果として、戦争報道なニュースが溢れることで、私たちの不作為は可視化され強固なポジションになりつつある。
それは何も日本がアメリカの戦争に巻き込まれているとかそういう話ですらなく、むしろ世界の戦争状態に無関心で事実上容認している我々国際社会の態度こそが。
最近の若者に特有の空気感という話ですらなく、社会の世論を左右している我々の大人の態度こそが。
不作為というカタチで。

教育現場からも不安の声が上がっている。「戦争は絶対悪という意識が薄らいでいる」。千葉県の公立高校で公民科目を教える50代の男性教諭は、最近の生徒の印象をこう語る。

SNSで揺らぐ平和意識 戦争容認、簡単に「いいね」  :日本経済新聞

「絶対悪」って言っておきながら、現実の世界で行われている戦争に見て見ぬフリを続ける、ひたすら一国主義で合理的な私たち。
若者だってそらそうなるよ。
ならないわけないよね。


本気で自分たちの不作為を解っていないのか、それとも実際には自分たちさえ平和であればそれでいいと思っているのか。
上記の男性教諭は一体どう考えているんでしょうね?





揺らぐ平和意識、戦争容認、あるいはヒトラー再評価な空気について。
一国主義者やナショナリストなみなさんは別にいいとして、平和を愛するリベラルなみなさんはいかがお考えでしょうか?
 
 

マクロンは「光あれ」と言われた。

30年越しの国家理性からの関白宣言。


フランスは「風刺画やめない」 マクロン氏、教師国葬で宣言 写真11枚 国際ニュース:AFPBB News
マクロン仏大統領「自由と理性を守る」 殺害された教師の追悼式で - BBCニュース
ということで国葬が行われたそうで。

【10月22日 AFP】イスラム教の預言者ムハンマド(Prophet Mohammed)の風刺画を授業で見せたことを理由に殺害されたフランスの歴史教師サミュエル・パティ(Samuel Paty)さん(47)の国葬が21日、パリのソルボンヌ大学(Sorbonne University)で営まれた。エマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)大統領は弔辞で、「われわれは風刺画をやめない」と宣言した。

 マクロン氏は、同国の最高勲章「レジオン・ドヌール(Legion d'Honneur)」をパティさんに授与。弔辞では、パティさんはフランス共和国の世俗的、民主的な価値観を体現したことで「臆病者たち」により殺されたと述べ、「彼は私たちの未来を奪おうとしたイスラム主義者らにより殺害された」、「私たちの未来は決して渡さない」と宣言した。

フランスは「風刺画やめない」 マクロン氏、教師国葬で宣言 写真11枚 国際ニュース:AFPBB News

フランス・パリ近郊で男性教師が首を切断されて殺害された事件で、被害者のサミュエル・パティさん(47)の追悼式が21日、パリ市内のソルボンヌ大学で行われた。

参列したエマニュエル・マクロン大統領は追悼演説で、パティさんを「静かな英雄」と称賛。「自由と理性を守っていく」と述べた。

マクロン仏大統領「自由と理性を守る」 殺害された教師の追悼式で - BBCニュース

いやあ、ものすごくザ・『国家理性』推しで、ここまで「理性の光」なんて直接言ってしまうなんて清々しさを感じてしまいます。
現代版「国家理性vs宗教的情熱」 - maukitiの日記
まぁこの辺の「やはり国家理性、……国家理性こそが全てを解決する!」なお話についてはシャルリー・エブドで大盛り上がりしたフランス政治社会を見ている限り、当然の帰結というかさもありなんという感じだよねえ。
国家理性はもちろん宗教に優越する、なんて。


ちょうどかの事件の裁判をやっているタイミングでもあって、
仏紙シャルリ・エブド、ムハンマド風刺画を再掲載 裁判開始で - BBCニュース
これまで曖昧にしてきた社会におけるイスラムとの共存関係における越えてはいけないラインの線引きを一気にハッキリさせようという強い意志を感じてしまいます。
悪魔の詩ラシュディ事件から広く始まったものの、30年近くイスラムはマイノリティだからと配慮――というか放置されてきた「表現の自由」と「神への冒涜」の致命的な対立の一つの解答。
いやぁ、あれから30年を経てようやくというべきか、ついにここまでというべきか。


この辺の思い切りの良さというのは、フランスという国家の強みでもあり、近代国家として世界の先駆者だったという自負もあるのでしょう。
その意味で、確かにフランスは今ふたたび世界の先駆者ポジションにあるのかもしれない。今回も勝てるといいね。
かつてキリスト教にもそうしたような宣戦布告というとアレですけども。あるいは関白宣言か。

お前たちを社会に同化させる前に言っておきたい事がある
かなりきびしい話もするが
俺の本音を聴いておけ





さて置き、フランスを中心にこうしたトレンドが生まれつつあるヨーロッパにおいて、したたかというか狡猾な態度変更を見せているのがキリスト教だと思うんですよね。
ローマ教皇、同性カップルの法的保護を支持 「家族になる権利ある」 - BBCニュース
イスラムと違って、もう100年以上前にフランスという国家から関白宣言を突き付けられたキリスト教は、柔軟に=時代に合わせて教義を変えることで生き残りと影響力の維持を図っている。

ローマ教皇はまた、自分は同性カップルの権利のために「立ち上がった」とも述べた。これは、ローマ教皇ブエノスアイレス大司教時代に、法律で同性婚を認めることに反対していた一方で、同性カップルのための法的保護の一部を支持していたことを指しているとみられる。

教皇の今回の発言は、同性愛者の権利容認について、これまでで最も明確なものと受け止められている。

しかし、BBCのマーク・ロウェン記者は、教皇ははっきりと同性愛者の権利について言及はしたものの、カトリック教会の教義自体が変更される兆しはないと指摘した。同性愛者などの重要な事柄について教義を変更するには通常、まずは内部で議論した後、もっと正式な形で提示されるという。

ローマ教皇、同性カップルの法的保護を支持 「家族になる権利ある」 - BBCニュース

従来どちらも「同性愛忌避」というポジションでは大して違いはなかった両者であったものの、しかし皮肉にもイスラムの台頭と併せて「現代の」キリスト教はかなり明確にその容認に舵を切りつつある。。
もちろんこれってあくまでシビルユニオンであって『結婚』とは似て非なる最後の一線では明確に異なる形での容認ではありますけども、それでもこの小さな一歩はリベラルな社会にとって大きな一歩であることは間違いない。


穿った見方をすれば、同じ宗教ではありながらも「イスラムと差別化」に熱心な人たちだよねえ。
宗教本来の純粋さを尚も維持しようと努力を続けるイスラムと、その本来あた教義の解釈を変えながらどうにか生き残ろうとするとキリスト教
――そしてそうした宗教たちに尚も『理性の光』という大正義を掲げ続ける現代国家。



ヨーロッパにおいてはキリスト教との戦いが終焉したことで近代国家が生まれもはや過去の遺物となったはずのこの戦いが、現代においてイスラムという新たなチャレンジャーが現れることで再開されつつあるのは、ホント面白い歴史の皮肉だよなあと思わずにはいられません。
社会における政治と宗教の境界線について。


みなさんはいかがお考えでしょうか?